人類の軌跡その529:ヴェルサイユ体制の崩壊⑦
<ソビエト連邦②>

◎キーロフ暗殺と大粛清の始まり
セルゲイ・キーロフは、党幹部で在ると共に政治委員で在り、その弁舌力と真摯な態度で民衆に大きな人気が在りました。
そして、共産党幹部で唯一スターリンに正面切って諫言を述べる事が出来た人物だったのです。
1934年12月1日にキーロフは、レオニード・ニコラエフという青年によって暗殺さます。
キーロフ暗殺については、キーロフの名声に嫉妬(!)したスターリンが命じたとする説も存在しますが、確証は無く、何れにしても、スターリンは容疑者として、嘗てスターリンが党から追放したジノヴィエフ、カーメネフとその支持者を逮捕し、その背後にトロツキーが国内に組織したテログループが存在するとの捏造工作を行います。
以後、そのテログループ殲滅を口実に、後に「大粛清」と呼ばれる嵐がソ連に吹き荒れ、大粛清の犠牲者は党幹部から党員そして一般市民、軍人にまで拡大し、諸説入り乱れ、裁判によって処刑された者は約100万人、強制収容所での強制労働や農業集団化により死亡した者は一般的に2,000万人と云われています。
又同時期に行われたシベリアへの農民強制移住は悲惨を極め、その正確な犠牲者数は未だに不明なのです。
※ドイツのスパイ容疑
事件の発端は、チェコスロバキア大統領ベネシュが、トゥハチェフスキー元帥をドイツのスパイと立証し得る資料が存在すると、ソ連の在プラハ公使に通報した事に始まります。
真相はソ連を攪乱する目的で、ドイツ保安機関が該当する資料を捏造し、自然な姿でベネシュに流れる様に仕向け、ベネシュは自国の安全保障の為、ソ連在プラハ公使を通じてスターリンに通報させた事は保母間違いない事実と判明しています。
更に、ドイツを上記行動に仕向ける様、ソ連保安機関が工作を行ったと云う有力な見解も存在しますが、この事象を証明する証拠は現在迄発見されていません。
◎赤軍大粛清(1937-38年)
1937から38年までに赤軍内で吹き荒れた大粛清。
その発端は、1937年6月、国内戦の英雄で、赤軍最高の頭脳であったトゥハチェフスキー元帥(国防人民委員代理)を始めとする赤軍最高幹部8名が、スパイ容疑で突如逮捕され、7名(1名は逮捕直前に自殺)が6月11日の秘密軍法会議で有罪判決を受け、控訴なしでモスクワのルビヤンカ刑務所で即刻銃殺されたことに始まります。
この大粛清が起こった背景には、スターリンの赤軍への強い猜疑心と、トゥハチェフスキー元帥への個人的な恨みが背景に存在し、赤軍は、帝政ロシア軍を母胎として、スターリンの政敵であるトロツキーが創設した軍であり、スターリンから見れば、いつ自分を裏切るかという猜疑心よりも恐怖心が常に存在していました。
又、スターリンは第一次世界大戦直後の1919年に起こったソ連・ポーランド戦争では、南西方面軍軍事委員としてワルシャワ前面のトゥハチェフスキーにブジョンヌイの第1騎兵軍を送らず敗北させた責任を問われて、革命軍事会議議員から罷免されたことを逆恨みしており、レーニンの死後、後継となったスターリンは、1926年12月の党大会でトロツキーなどの党の反対派約70名とレーニンの盟友の殆ど総てを党から除名し、主要な者達を流刑地に追放して行きました。
続く・・・

◎キーロフ暗殺と大粛清の始まり
セルゲイ・キーロフは、党幹部で在ると共に政治委員で在り、その弁舌力と真摯な態度で民衆に大きな人気が在りました。
そして、共産党幹部で唯一スターリンに正面切って諫言を述べる事が出来た人物だったのです。
1934年12月1日にキーロフは、レオニード・ニコラエフという青年によって暗殺さます。
キーロフ暗殺については、キーロフの名声に嫉妬(!)したスターリンが命じたとする説も存在しますが、確証は無く、何れにしても、スターリンは容疑者として、嘗てスターリンが党から追放したジノヴィエフ、カーメネフとその支持者を逮捕し、その背後にトロツキーが国内に組織したテログループが存在するとの捏造工作を行います。
以後、そのテログループ殲滅を口実に、後に「大粛清」と呼ばれる嵐がソ連に吹き荒れ、大粛清の犠牲者は党幹部から党員そして一般市民、軍人にまで拡大し、諸説入り乱れ、裁判によって処刑された者は約100万人、強制収容所での強制労働や農業集団化により死亡した者は一般的に2,000万人と云われています。
又同時期に行われたシベリアへの農民強制移住は悲惨を極め、その正確な犠牲者数は未だに不明なのです。
※ドイツのスパイ容疑
事件の発端は、チェコスロバキア大統領ベネシュが、トゥハチェフスキー元帥をドイツのスパイと立証し得る資料が存在すると、ソ連の在プラハ公使に通報した事に始まります。
真相はソ連を攪乱する目的で、ドイツ保安機関が該当する資料を捏造し、自然な姿でベネシュに流れる様に仕向け、ベネシュは自国の安全保障の為、ソ連在プラハ公使を通じてスターリンに通報させた事は保母間違いない事実と判明しています。
更に、ドイツを上記行動に仕向ける様、ソ連保安機関が工作を行ったと云う有力な見解も存在しますが、この事象を証明する証拠は現在迄発見されていません。
◎赤軍大粛清(1937-38年)
1937から38年までに赤軍内で吹き荒れた大粛清。
その発端は、1937年6月、国内戦の英雄で、赤軍最高の頭脳であったトゥハチェフスキー元帥(国防人民委員代理)を始めとする赤軍最高幹部8名が、スパイ容疑で突如逮捕され、7名(1名は逮捕直前に自殺)が6月11日の秘密軍法会議で有罪判決を受け、控訴なしでモスクワのルビヤンカ刑務所で即刻銃殺されたことに始まります。
この大粛清が起こった背景には、スターリンの赤軍への強い猜疑心と、トゥハチェフスキー元帥への個人的な恨みが背景に存在し、赤軍は、帝政ロシア軍を母胎として、スターリンの政敵であるトロツキーが創設した軍であり、スターリンから見れば、いつ自分を裏切るかという猜疑心よりも恐怖心が常に存在していました。
又、スターリンは第一次世界大戦直後の1919年に起こったソ連・ポーランド戦争では、南西方面軍軍事委員としてワルシャワ前面のトゥハチェフスキーにブジョンヌイの第1騎兵軍を送らず敗北させた責任を問われて、革命軍事会議議員から罷免されたことを逆恨みしており、レーニンの死後、後継となったスターリンは、1926年12月の党大会でトロツキーなどの党の反対派約70名とレーニンの盟友の殆ど総てを党から除名し、主要な者達を流刑地に追放して行きました。
続く・・・
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