2012/12/05

人類の軌跡その530:ヴェルサイユ体制の崩壊⑧

<ソビエト連邦③>

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トゥハチェフスキー元帥
 
◎赤軍大粛清(1937-38年)②

 これらの党内の権力争いは1934年までに、スターリンの勝利に終わりますが、それでも猜疑心の強いスターリンは不十分と考え、党と軍部の粛清(反対派の完全除去)を断行し、1934年12月、キーロフ暗殺を発端としてスターリンの粛清行動がまず党内で動き出し、次々に粛清されるべき分派活動や破壊分子が作り出され、多数の古参党員が粛清されて行きました(ほとんどが冤罪であったという)。

 しかし、軍部、特に国内戦の英雄で、国民に慕われていたトゥハチェフスキー元帥にはさすがのスターリンも手を付けることが出来ず、1937年ドイツのスパイ容疑という罪状で粛清する事に成功します。
トゥハチェフスキー元帥という後ろ盾をなくした軍は、以後1937年から38年までの間粛清という名の大虐殺が吹き荒れ、元帥5名中3名、軍管区司令官(大将相当)15名中13名、軍団長(中将相当)85名中62名、師団長(少将相当)195名中110名、旅団長(准将相当)406名中220名、大佐階級も四分の三がその対象となり、旅団長以上の幹部と政治将校の実に45%、高級将校の65%が粛清されました。
政治局員(共産党から赤軍監視のために派遣されている党員たち)も最低2万人以上が殺害され、同期間中に赤軍全体で4万名以上が粛清され、また赤軍軍人で共産党員だった者は30万人いたが、そのうち半数の15万人が1938年中に命を落とし、これら上部・中堅司令官を大量に失った赤軍は瓦解寸前の状態に陥りました。

6月11日の秘密軍法会議にかけられた”容疑者”

 トゥハチェフスキー元帥(国防人民委員代理)
 ヤキール一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)
 ウボレヴィッチ一等軍司令官(白ロシア軍管区司令官)
 コルク二等軍司令官(フルンゼ陸軍大学校校長)
 プリマコフ三等軍司令官(レニングラード軍管区副司令官)


◎東部戦線開戦迄

 1939年8月23日の独ソ不可侵条約の締結は、全体主義と社会主義と云う、相容れない関係と見られていたドイツとソ連の接近であり、全世界に衝撃を与えました。

 しかし、ドイツは、避けられないと予想されるイギリス、フランス戦に専念する迄、その背後の憂いを絶つ目的から、ソ連は赤軍大粛清で弱体化したソ連軍を再建する為の時間稼ぎの為と云う、お互いの思惑が存在していました。
将来、何れかの国が、この条約を不要とした場合、条約を破って侵攻してくることは明かでしたから、其の為、ソ連は自国の安全を最優先し、独ソ不可侵条約で同時に調印され、秘密議定書によって認められていた独ソ間による北欧・バルト三国・東欧諸国のお互いの勢力分布に基づいて、領土併合の野望を顕わにするのです。

 1939年のソ連・フィンランド戦争、1940年のバルト三国併合、同年のルーマニアのベッサラビア地方併合がその例ですが、このベッサラビア地方併合は、ドイツが有する唯一の油田地帯であったプロエスティ油田に近く、ドイツを刺激することになりました。
仮にそこを占領されれば、ドイツは戦争遂行能力に重大な影響を与える為であり、バルカン地方の混乱によって、同地域にソ連が進出する余地を与えてしまう事に重大な危機感を抱き、ヒトラーはバルカン諸国の混乱を一気に解決すべく、ウィーン裁定と呼ばれる強硬な決定によって、ルーマニア領トランシルヴァニアのハンガリー帰属、ブルガリアへの領土割譲を決定してしまいます。

 その代償として、ドイツは軍事使節団という名目でドイツ軍を派遣し、ルーマニア領土の安全保障に責任を負う事となり、一応の安定を取り戻しました。
しかしその安定も長期化せず、独ソ間の緩衝地帯を手中にした両国は1941年6月22日、ドイツによる不可侵破棄を迎えます。

続く・・・
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こんにちは。
本当に寒くなりましたね。風が強いので、体感温度は気温以上に寒く感じますね。
うちは、日が高い時間帯にお散歩に行く事もできますが、ジロくんのお散歩は、かなり冷え込む時間帯になるでしょうからお気を付け下さいね。