2012/12/08

人類の軌跡その533:満州事変②

<満州事変と中国国民政府②>

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朱徳が率いる南昌武装蜂起で残存した部隊が井岡山に移動し毛沢東と合流。
中国共産党の「農村から都市を包囲する」戦略転換において重要な一歩となった。


◎国内の「敵」

 蒋介石率いる国民政府は、日本の侵略に対して国際連盟をつうじた抗議は行ったものの、基本的には無抵抗政策を取り、この為、柳条湖事件勃発時、北京に滞在していた東北軍司令官の張学良は、東北軍11万を錦州に集結しましたが、日本軍が迫ると抗戦することなく錦州を退き、その後も反撃することはありませんでした。

 蒋介石は、国内を安定させてから外敵を退ける「安内攘外」策をとり、東北地方は切り捨てたのでした。
蒋介石が総力を挙げて戦っていたのは中国共産党でした。
中国共産党は、国共分裂で国民政府を追われて以降、農村で農地解放を進めながら根拠地建設を行い、1930年には15の根拠地と紅軍(中国共産党の革命軍)兵力6万を擁し、三百余県を支配する迄にその勢力を拡大していたのです。
31年11月には毛沢東を主席として、江西省南部の瑞金を首都に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立し、満州事変前後の時期に、国民政府は40万を越える戦力を投入して共産党根拠地を攻撃しており、蒋介石は「われわれの敵は倭寇(日本)ではなく、匪賊(共産党)である」と公言していました。

◎中国共産党労農紅軍の長征

 数次にわたる国民政府軍の攻撃を撃退した労農紅軍ですが、1933年、蒋介石が自ら指揮して100万の兵力と飛行機200機を投入し、経済封鎖も交えた包囲戦が開始されると、根拠地を維持できず、34年、10万の軍は瑞金を脱出し、以後、国民政府軍の攻撃を逃れながら1万2500キロの道のりを踏破し3万の兵力に減少しながらも、36年に陜西省延安に到着して、ここに新たな根拠地建設を開始しました。
この過程を長征と呼びます。

◎八・一宣言と抗日意識

 長征途上の35年8月1日、中国共産党は八・一宣言を発表し、内戦の停止と民族統一戦線の結成による救国抗日を訴えましたが、之はコミンテルンの呼びかけた反ファシズム統一戦線にそったものです。

 満州国建国後も日本による侵略は継続され、1935年には河北省東部に日本の傀儡政権である冀東防共自治政府が成立しました。
この「自治政府」は、沿岸でおこなわれていた日本の密貿易を低関税で公認し、又その支配地域を通過して満州国で生産されたアヘンが中国各地に流れた為、北京の学生は反日デモを行い、救国抗日感情が高まって行きます。

◎西安事件

 蒋介石は抗日戦を求める中国国民の期待に応える事なく、36年、張学良を中共討伐戦司令に任命し延安の共産党討伐を命じました。
しかし故郷を日本軍に奪われた張学良とその指揮下の東北軍は、共産党の抗日救国の訴えに動かされ、対共産党戦に消極的でした。
36年12月、蒋介石が督戦の為張学良の司令部のあった西安に赴くと、張学良は蒋介石を監禁し抗日戦を迫りました(西安事件)。

 中国共産党の周恩来も延安から西安に入り蒋介石の説得を行い(二人は黄埔軍官学校の同僚でした)、抗日戦に同意した蒋介石は、監禁を解かれ南京に戻りました。
この後、中国共産党に対する攻撃は中止され、翌37年、日本の中国侵略が本格化すると、ついに第二次国共合作が成立し国民政府=中国国民党と中国共産党はともに日本と戦う事に成ります。

※その後の張学良は

 西安事件後、蒋介石に従って南京に戻った張学良は罪に問われ軟禁されました。
1949年に国民政府が台湾に移った後も、台湾で軟禁は継続され、解放されたのは1991年でした。
2001年ハワイで101歳の大往生を遂げましたが、晩年の張学良は、関係者がすべて死去していたにもかかわらず、西安事件で周恩来が蒋介石を説得した具体的な内容については、決して話そうとしませんでした。

続く・・・
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