人類の軌跡その534:日中戦争①
<日中戦争①>

廬溝橋事件をきっかけに、日本は中国侵略を本格化し日中戦争が勃発、中国では第二次国共合作が成立し、国民政府は重慶へ移って抗戦を継続し、戦争は長期化して行きます。
◎日中戦争の始まり
1937年7月7日、北京郊外の廬溝橋で日本の支那駐屯軍と中国軍との間で戦闘が始まりました(廬溝橋事件)。
演習中の日本軍に対して中国軍が発砲した事が発端とされていますが、日中双方の言い分は食い違い真相ははっきりとせず、11日には、現地の日本軍と中国軍の間で、停戦協定が結ばれたにもかかわらず、近衛内閣は三個師団の派兵を決定し、これを機会に中国への武力侵略を本格化する姿勢を示しました。
7月末には華北で日本軍の総攻撃が開始され、北京、天津など主要都市を占領、8月には上海に2個師団が派遣されて華中でも戦闘が始まりました。
こうしてはじまった日中戦争ですが、当時の日本では「支那事変」と呼び、戦争という言葉を使わず、中国に対して宣戦布告を行いませんでした。
之は中国を対等の交戦国と考えず見下していた事と、戦争行為を認める事で、交戦国への輸出制限を定めていた合衆国から、戦略物資の輸入が途絶えるのを恐れた為でした。
◎第二次国共合作
それまで日本の侵略に対して妥協的態度をとっていた蒋介石ですが、日本軍の総攻撃が開始された、37年7月に徹底抗戦を表明し、9月には終に第二次国共合作が成立し、中国共産党の労農紅軍は国民政府の第八路軍と共に新編四軍として編成され、国民政府軍として日本軍と戦う事になりました。
◎南京占領
日本軍は11月に上海を占領し、ついで国民政府の首都南京に進撃、12月中旬に南京を占領しましたが、その際に、捕虜、投降兵、一般市民を虐殺し国際的非難を浴びました(南京大虐殺)。
犠牲者の数は4万人から30万人まで諸説ありますが、日本軍が国際法を無視して非戦闘員を大量虐殺した事実は否定できません。
近衛内閣は、南京の占領で国民政府を降伏に持ち込めると考えていましたが、国民政府が首都を四川省の重慶に移し抗日戦を継続した為、戦争終結への方向性を見失い、38年1月に「国民政府を対手(あいて)とせず」との声明を発表し、講和への道を自ら断ってしまいます。
日本軍はその後華北と華南の占領地をつなぎ、又重慶への補給路を断つ為に、38年10月、広州、武漢を占領しましたが、重慶の国民政府は中央アジアやビルマ経由で米・英・ソ連の物資援助を受け、抗日戦の指導を継続したのです。
華北を中心に広大な地域を占領した日本軍ですが、確実に確保していたのは主要都市と鉄道だけで、農村地域では中国共産党の抗日根拠地が建設されて、八路軍の遊撃戦に日本軍は悩まされ、戦争は泥沼化しました。
続く・・・

廬溝橋事件をきっかけに、日本は中国侵略を本格化し日中戦争が勃発、中国では第二次国共合作が成立し、国民政府は重慶へ移って抗戦を継続し、戦争は長期化して行きます。
◎日中戦争の始まり
1937年7月7日、北京郊外の廬溝橋で日本の支那駐屯軍と中国軍との間で戦闘が始まりました(廬溝橋事件)。
演習中の日本軍に対して中国軍が発砲した事が発端とされていますが、日中双方の言い分は食い違い真相ははっきりとせず、11日には、現地の日本軍と中国軍の間で、停戦協定が結ばれたにもかかわらず、近衛内閣は三個師団の派兵を決定し、これを機会に中国への武力侵略を本格化する姿勢を示しました。
7月末には華北で日本軍の総攻撃が開始され、北京、天津など主要都市を占領、8月には上海に2個師団が派遣されて華中でも戦闘が始まりました。
こうしてはじまった日中戦争ですが、当時の日本では「支那事変」と呼び、戦争という言葉を使わず、中国に対して宣戦布告を行いませんでした。
之は中国を対等の交戦国と考えず見下していた事と、戦争行為を認める事で、交戦国への輸出制限を定めていた合衆国から、戦略物資の輸入が途絶えるのを恐れた為でした。
◎第二次国共合作
それまで日本の侵略に対して妥協的態度をとっていた蒋介石ですが、日本軍の総攻撃が開始された、37年7月に徹底抗戦を表明し、9月には終に第二次国共合作が成立し、中国共産党の労農紅軍は国民政府の第八路軍と共に新編四軍として編成され、国民政府軍として日本軍と戦う事になりました。
◎南京占領
日本軍は11月に上海を占領し、ついで国民政府の首都南京に進撃、12月中旬に南京を占領しましたが、その際に、捕虜、投降兵、一般市民を虐殺し国際的非難を浴びました(南京大虐殺)。
犠牲者の数は4万人から30万人まで諸説ありますが、日本軍が国際法を無視して非戦闘員を大量虐殺した事実は否定できません。
近衛内閣は、南京の占領で国民政府を降伏に持ち込めると考えていましたが、国民政府が首都を四川省の重慶に移し抗日戦を継続した為、戦争終結への方向性を見失い、38年1月に「国民政府を対手(あいて)とせず」との声明を発表し、講和への道を自ら断ってしまいます。
日本軍はその後華北と華南の占領地をつなぎ、又重慶への補給路を断つ為に、38年10月、広州、武漢を占領しましたが、重慶の国民政府は中央アジアやビルマ経由で米・英・ソ連の物資援助を受け、抗日戦の指導を継続したのです。
華北を中心に広大な地域を占領した日本軍ですが、確実に確保していたのは主要都市と鉄道だけで、農村地域では中国共産党の抗日根拠地が建設されて、八路軍の遊撃戦に日本軍は悩まされ、戦争は泥沼化しました。
続く・・・
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コメント
こんばんは
誰も止めることができなかったのが、残念でなりません。
2012-12-10 21:13 kopanda06 URL 編集