人類の軌跡その535:日中戦争②
<日中戦争②>

◎南京政府
蒋介石と並ぶ国民党の指導者汪兆銘(おうちょうめい)が、1938年12月、日本の呼びかけに答えて重慶を脱出しました。
汪は、一時は孫文の後継者と目された政治家で、軍隊を掌握した蒋介石に国民党の主導権を奪われましたが、国民には大きな影響力を持っていました。
日本は汪兆銘に親日的な国民政府を組織させて、その政府と和平交渉を行おうとしたのです。
しかし、重慶を出た汪兆銘は国民から見放され、40年、汪を主席として南京国民政府が樹立されましたが、国民に対する影響力はなく、日本の目論見は見事に失敗しました。
◎ノモンハン事件
日中戦争の行き詰まりを、更なる戦線拡大によって打開しようとする軍部内部には、ソ連との戦いを主張する北進論と、インドシナ方面への進出を主張する南進論が存在していました。
1938年7月、朝鮮・満州・ソ連の国境で起きた張鼓峰事件と1939年5月、モンゴル・満州国境で起きたノモンハン事件は、北進論の立場から行われたソ連軍との軍事衝突です。
共に日本軍が敗北しましたが、特に、ノモンハン事件では戦車と航空機によるソ連の機械化部隊に日本軍は死者1万人を超す壊滅的打撃を受け、更にノモンハンで戦闘が続く最中の39年8月に、独ソ不可侵条約が締結された事は日本に大きな衝撃を与えました。
日本の対ソ軍事行動は、日独伊防共協定を結んでいるドイツがヨーロッパ方面でソ連を牽制する事を前提にしており、9月にドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦がはじまった後、ようやく日ソ間でノモンハン事件の休戦協定が結ばれました。
この後、第二次大戦のヨーロッパ戦線の推移と連動して、日本は南進策を選択して行きます。
※「事変」と「戦争」の違い
現在、「日中戦争」と呼ばれる戦いは、勃発当初「支那事変」や「日支事変」等と呼ばれていました。
この「戦争」と「事変」の違い、「事変」とはいったい何であるのかについて調べてみました。
「事変」とは、広範の非常事態や騒乱の事を指し、「事件」よりも規模が大きい騒乱を意味し、「宣戦布告なしの戦争状態」に用いられます。
宣戦布告の有無で「事変」、「戦争」呼称が決まるのですが、では上記の日本と中国との騒乱を「事変」と云う名称を用いたのは、日本・中国双方の思惑が存在しからに他なりません。
日本の場合、国際連盟規約やパリ不戦条約により、国際紛争の解決手段に戦争を遂行する事は。禁じられていたので、「戦争ではない」として国際的な批判を回避したいと云う日本政府の思惑が存在していました。
一方の当事国である、中国の場合、「戦争」とすれば、戦時国際法によって、交戦国以外の第三国(中立国)が交戦国に援助することが禁止される為(中立義務)、当時中立国であるアメリカからの援助に、大きく依存していた中国にとって、著しい不利と成る為でした(日本も、原油をアメリカに大きく依存していた為、同様な事が言えます)。
因みに、「戦争」と名称変更に成ったのは、日米開戦によって中立義務の存在を考慮する、必要が無く成った為でした。
(参考)
今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時間ニ付テ閣議決定(昭和十六年十二月十二日)
一、今次ノ対英米戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ、支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等に関スル平時戦時ノ分界時期ハ、昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス[以下省略]
此処に云う『支那事変をも含め』とした表現は、1937年7月7日に勃発した〈支那事変〉迄、遡って含めるのではなく、1941年12月8日以後、中国地域での戦争を含めるという意味であり、関係法律としては、昭和十七年二月十七日、法律第九号で、 「勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ為シタル場合ヲ除クノ外、各法律中支那事変ヲ『大東亜戦争』ニ改ム」と定められ、一般にも「大東亜戦争」の呼称が定着しました。
続く・・・

◎南京政府
蒋介石と並ぶ国民党の指導者汪兆銘(おうちょうめい)が、1938年12月、日本の呼びかけに答えて重慶を脱出しました。
汪は、一時は孫文の後継者と目された政治家で、軍隊を掌握した蒋介石に国民党の主導権を奪われましたが、国民には大きな影響力を持っていました。
日本は汪兆銘に親日的な国民政府を組織させて、その政府と和平交渉を行おうとしたのです。
しかし、重慶を出た汪兆銘は国民から見放され、40年、汪を主席として南京国民政府が樹立されましたが、国民に対する影響力はなく、日本の目論見は見事に失敗しました。
◎ノモンハン事件
日中戦争の行き詰まりを、更なる戦線拡大によって打開しようとする軍部内部には、ソ連との戦いを主張する北進論と、インドシナ方面への進出を主張する南進論が存在していました。
1938年7月、朝鮮・満州・ソ連の国境で起きた張鼓峰事件と1939年5月、モンゴル・満州国境で起きたノモンハン事件は、北進論の立場から行われたソ連軍との軍事衝突です。
共に日本軍が敗北しましたが、特に、ノモンハン事件では戦車と航空機によるソ連の機械化部隊に日本軍は死者1万人を超す壊滅的打撃を受け、更にノモンハンで戦闘が続く最中の39年8月に、独ソ不可侵条約が締結された事は日本に大きな衝撃を与えました。
日本の対ソ軍事行動は、日独伊防共協定を結んでいるドイツがヨーロッパ方面でソ連を牽制する事を前提にしており、9月にドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦がはじまった後、ようやく日ソ間でノモンハン事件の休戦協定が結ばれました。
この後、第二次大戦のヨーロッパ戦線の推移と連動して、日本は南進策を選択して行きます。
※「事変」と「戦争」の違い
現在、「日中戦争」と呼ばれる戦いは、勃発当初「支那事変」や「日支事変」等と呼ばれていました。
この「戦争」と「事変」の違い、「事変」とはいったい何であるのかについて調べてみました。
「事変」とは、広範の非常事態や騒乱の事を指し、「事件」よりも規模が大きい騒乱を意味し、「宣戦布告なしの戦争状態」に用いられます。
宣戦布告の有無で「事変」、「戦争」呼称が決まるのですが、では上記の日本と中国との騒乱を「事変」と云う名称を用いたのは、日本・中国双方の思惑が存在しからに他なりません。
日本の場合、国際連盟規約やパリ不戦条約により、国際紛争の解決手段に戦争を遂行する事は。禁じられていたので、「戦争ではない」として国際的な批判を回避したいと云う日本政府の思惑が存在していました。
一方の当事国である、中国の場合、「戦争」とすれば、戦時国際法によって、交戦国以外の第三国(中立国)が交戦国に援助することが禁止される為(中立義務)、当時中立国であるアメリカからの援助に、大きく依存していた中国にとって、著しい不利と成る為でした(日本も、原油をアメリカに大きく依存していた為、同様な事が言えます)。
因みに、「戦争」と名称変更に成ったのは、日米開戦によって中立義務の存在を考慮する、必要が無く成った為でした。
(参考)
今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時間ニ付テ閣議決定(昭和十六年十二月十二日)
一、今次ノ対英米戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ、支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等に関スル平時戦時ノ分界時期ハ、昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス[以下省略]
此処に云う『支那事変をも含め』とした表現は、1937年7月7日に勃発した〈支那事変〉迄、遡って含めるのではなく、1941年12月8日以後、中国地域での戦争を含めるという意味であり、関係法律としては、昭和十七年二月十七日、法律第九号で、 「勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ為シタル場合ヲ除クノ外、各法律中支那事変ヲ『大東亜戦争』ニ改ム」と定められ、一般にも「大東亜戦争」の呼称が定着しました。
続く・・・
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