人類の軌跡その537:太平洋戦争開戦前夜の日本②
<太平洋戦争勃発の原因②>

◎統帥権②
しかし問題は、1930(昭和5年)年4月下旬に始まった第58帝国議会(特別議会)で発生しました。
この年2月の総選挙で大敗した野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎が衆議院で、「軍令部の意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」との攻撃を、外交・軍事両面にわたり穏健政策を進めた民政党濱口雄幸内閣に対して行い、続いて枢密院議長倉富勇三郎もこれに同調する動きを見せたのです。
それまで常備兵額を定めるのは「統帥権」ではなく「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム(第12条)」と規定されていた「編成大権」の管轄事項であり、予算が重要に絡む事項である為、予算編成権を有していた内閣(海軍省)定め、それを統帥部が承認して決定されており、誰も是等の行為を統帥権の干犯だとは思っていませんでした。
政友会の目的は、海軍の強硬派と連携して統帥権干犯を口実にした倒閣に在ったのですが、やがてこうした反対論は同条約に不満を持つ軍令部の反対派や右翼団体を大いに刺激し、政友会に呼応して加藤軍令部長が6月、統帥権干犯を批判し天皇に辞表を提出したものの、条約自体は、7月末から批准の為枢密院での審査に入り、世論の支持と元老及び内大臣の了解を背景とした、濱口首相らの断固とした態度から帝国議会と枢密院を押し切って(枢密院本会議を通過は10月1日)、10月2日天皇の裁可を受け批准の運びと成ります。
その後、1930年11月14日、濱口雄幸首相は右翼団体員に東京駅で狙撃されて重傷を負い(翌年8月26日死亡)、濱口内閣も1931年(昭和6年)4月13日総辞職、軍部の力を借りて濱口雄幸内閣倒閣に成功し、後継総理となった政友党総裁の犬養毅は軍縮を推進しようとした為、後に1932年5月15日に起こった五・一五事件によって皮肉にも決起した青年将校によって暗殺されます。
この五・一五事件によって、以後政党内閣は成立せず、加藤高明内閣以来続いた政党政治が終焉を迎える事と成り、犬養と共に統帥権干犯として濱口内閣を攻撃した鳩山一郎は、戦時中には軍の圧力により逼塞状態におかれ、戦後に総理就任を目前にしてGHQから、この事を追及されて、軍部の台頭に協力した軍国主義者として公職追放となる皮肉な歴史を辿る事と成りました。
なお、海軍内部ではこの過程において条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」の対立構造が生まれたのですが、後に「大角人事」による条約派幹部提督の一掃によって艦隊派の勝利に終わっています。
この後、「統帥権の独立」の名の下に下記の事件に象徴されるような軍部の暴走がはじまり、日本は戦争の道へと突き進んでいく事に成ります。
満州事変(1931年(昭和6年)9月18日)
五・一五事件(1932年(昭和7年)5月15日)
ゴー・ストップ事件(1933年(昭和8年)6月17日)
二.二六事件(1936年(昭和11年)2月26日)
※満州事変
1931年9月18日夜、板垣大佐、石原中佐ら関東軍幕僚達は、中国軍(張学良軍)側の仕業に見せかけて、自らの手で日本の権益である南満州鉄道を奉天(現在の瀋陽)北郊の柳条湖付近で爆破し(柳条湖事件)、これを口実に、日本軍は奉天・北大営にある中国軍に対して攻撃を開始しました。
当時日本の新聞は真相を知らぬまま、関東軍の情報によって、中国側の仕業として広く報道したのです。
事変とは国際法の交戦国条項を免れる為の言葉で、宣戦なき事実上の戦争で、政府は当初、事態不拡大の方針を決定していたにも関わらず、閣内の不一致と、関東軍の要請に応じた朝鮮軍が越境するなど事態が拡大するとこれを事実上認めてしまいます。
事変が起きた時、総会を開会中の国際連盟に対し中国は提訴し、連盟は日中双方に撤収交渉を求める決議を採択したのですが、関東軍は錦州爆撃に始まる戦線を拡大、翌年2月までに中国北東部三省の主要都市や鉄道沿線を占領する既成事実をつくり上げ、更に関東軍は1932年7月から1933年3月熱河省も占領、国民政府もついには既成事実を黙認する事となります。
1932年3月1日には関東軍は清国最後の皇帝宣統帝溥儀を執政の座に据え、「満州国」を樹立、支配下に起きますが、国際連盟が派遣したリットン伯爵を団長とする調査団が日本の主張を否認する報告書を採択すると、日本は連盟を脱退し、日本は国際的孤立化を深めて行く事と成りました。
戦闘自体は1933年5月の停戦協定によって終結しましたが、「満州事変」はこの後1937年7月の盧構橋事件を発端とする日中全面戦争と続き、1941年から始まるの太平洋戦争への序盤でした。
続く・・・

◎統帥権②
しかし問題は、1930(昭和5年)年4月下旬に始まった第58帝国議会(特別議会)で発生しました。
この年2月の総選挙で大敗した野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎が衆議院で、「軍令部の意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」との攻撃を、外交・軍事両面にわたり穏健政策を進めた民政党濱口雄幸内閣に対して行い、続いて枢密院議長倉富勇三郎もこれに同調する動きを見せたのです。
それまで常備兵額を定めるのは「統帥権」ではなく「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム(第12条)」と規定されていた「編成大権」の管轄事項であり、予算が重要に絡む事項である為、予算編成権を有していた内閣(海軍省)定め、それを統帥部が承認して決定されており、誰も是等の行為を統帥権の干犯だとは思っていませんでした。
政友会の目的は、海軍の強硬派と連携して統帥権干犯を口実にした倒閣に在ったのですが、やがてこうした反対論は同条約に不満を持つ軍令部の反対派や右翼団体を大いに刺激し、政友会に呼応して加藤軍令部長が6月、統帥権干犯を批判し天皇に辞表を提出したものの、条約自体は、7月末から批准の為枢密院での審査に入り、世論の支持と元老及び内大臣の了解を背景とした、濱口首相らの断固とした態度から帝国議会と枢密院を押し切って(枢密院本会議を通過は10月1日)、10月2日天皇の裁可を受け批准の運びと成ります。
その後、1930年11月14日、濱口雄幸首相は右翼団体員に東京駅で狙撃されて重傷を負い(翌年8月26日死亡)、濱口内閣も1931年(昭和6年)4月13日総辞職、軍部の力を借りて濱口雄幸内閣倒閣に成功し、後継総理となった政友党総裁の犬養毅は軍縮を推進しようとした為、後に1932年5月15日に起こった五・一五事件によって皮肉にも決起した青年将校によって暗殺されます。
この五・一五事件によって、以後政党内閣は成立せず、加藤高明内閣以来続いた政党政治が終焉を迎える事と成り、犬養と共に統帥権干犯として濱口内閣を攻撃した鳩山一郎は、戦時中には軍の圧力により逼塞状態におかれ、戦後に総理就任を目前にしてGHQから、この事を追及されて、軍部の台頭に協力した軍国主義者として公職追放となる皮肉な歴史を辿る事と成りました。
なお、海軍内部ではこの過程において条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」の対立構造が生まれたのですが、後に「大角人事」による条約派幹部提督の一掃によって艦隊派の勝利に終わっています。
この後、「統帥権の独立」の名の下に下記の事件に象徴されるような軍部の暴走がはじまり、日本は戦争の道へと突き進んでいく事に成ります。
満州事変(1931年(昭和6年)9月18日)
五・一五事件(1932年(昭和7年)5月15日)
ゴー・ストップ事件(1933年(昭和8年)6月17日)
二.二六事件(1936年(昭和11年)2月26日)
※満州事変
1931年9月18日夜、板垣大佐、石原中佐ら関東軍幕僚達は、中国軍(張学良軍)側の仕業に見せかけて、自らの手で日本の権益である南満州鉄道を奉天(現在の瀋陽)北郊の柳条湖付近で爆破し(柳条湖事件)、これを口実に、日本軍は奉天・北大営にある中国軍に対して攻撃を開始しました。
当時日本の新聞は真相を知らぬまま、関東軍の情報によって、中国側の仕業として広く報道したのです。
事変とは国際法の交戦国条項を免れる為の言葉で、宣戦なき事実上の戦争で、政府は当初、事態不拡大の方針を決定していたにも関わらず、閣内の不一致と、関東軍の要請に応じた朝鮮軍が越境するなど事態が拡大するとこれを事実上認めてしまいます。
事変が起きた時、総会を開会中の国際連盟に対し中国は提訴し、連盟は日中双方に撤収交渉を求める決議を採択したのですが、関東軍は錦州爆撃に始まる戦線を拡大、翌年2月までに中国北東部三省の主要都市や鉄道沿線を占領する既成事実をつくり上げ、更に関東軍は1932年7月から1933年3月熱河省も占領、国民政府もついには既成事実を黙認する事となります。
1932年3月1日には関東軍は清国最後の皇帝宣統帝溥儀を執政の座に据え、「満州国」を樹立、支配下に起きますが、国際連盟が派遣したリットン伯爵を団長とする調査団が日本の主張を否認する報告書を採択すると、日本は連盟を脱退し、日本は国際的孤立化を深めて行く事と成りました。
戦闘自体は1933年5月の停戦協定によって終結しましたが、「満州事変」はこの後1937年7月の盧構橋事件を発端とする日中全面戦争と続き、1941年から始まるの太平洋戦争への序盤でした。
続く・・・
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