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2012/12/15

人類の軌跡その539:太平洋戦争開戦前夜の日本④

<太平洋戦争勃発の原因④>

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◎軍部大臣現役武官制

 軍部の大臣(陸・海軍大臣)は現役の武官(軍人)でなければならない事を定めた制度。
1900年(明治33年)の第二次山縣有朋内閣において、当時力を付けて来た議会勢力の軍事費削減攻勢を恐れ、また議会(政党)を嫌悪する山縣によって、軍部大臣とも大臣は「現役」陸軍(海軍)大中将に限るとする陸海軍省官制勅令(法律では無く、かつ勅令であり、陸海軍省官制の定員表の備考に記されたのみであった)が公布されました。
この時に大臣、次官とも現役中少将に制限され、この時点で軍部大臣現役武官制の基礎が出来たと思われます。

 この制度が設けられた理由は、現役でなければ現在の軍部の動向に通じておらず、職務が全うできないと云う事が表面上の理由でしたが、実際には、この様な規定をつくれば、陸軍や海軍が「大臣を出さない」と言ったら最後、内閣を組閣出来ない事となるのです。

 こうして、政党政治家が、軍に影響力を持たない様に仕向けた制度で、軍部大臣になりたいと思っている軍人にとっても、人事権を握っている陸海軍省を無視することが出来ませんでした。
すなわち、「予備役に入る事」と言われれば軍部大臣に就任できず、後年の話に、陸軍予備役大将宇垣一成が内閣組閣の大命降下を受けたものの、陸軍省から陸軍大臣の推薦を拒否され、電話でかつての部下、小磯国昭朝鮮軍司令官に陸軍大臣就任の依頼をしたものの、陸軍軍部の推薦が無いなら、仮に自分が受けたとしても、朝鮮海峡を渡っている間に、電報一本で予備役に編入され駄目になると答え、結局宇垣内閣は成立しなかった(「宇垣内閣流産」と言われた)一件は好例です。

 この軍部にとっての「伝家の宝刀」は後に1912(大正元)年、西園寺内閣のとき、本当に切られる事に成りました。
第二次西園寺公望内閣の上原勇作陸軍大臣の2個師団増設問題に於いて、極度に悪化した国家財政建て直しを理由に西園寺首相が上原大臣の要求を渋った結果、上原大臣が単独で天皇に辞表を提出し陸軍大臣職を辞し、陸軍はこの軍部大臣現役武官制を利用(悪用)して後任の大臣を出さず(「陸軍のストライキ」と言われた)、第二次西園寺内閣を瓦解に追い込みました。
この事件以降、流石に「そんなやり方はひどい」と思った人たちは多く、各界から護憲運動がおこり、軍部大臣現役武官制が日本の政治において問題とされる様に成ります。

 その後、1913年(大正2年)第一次山本権兵衛内閣は、山本首相と木越安綱陸軍大臣の英断で、軍部の強い総反発を押し切って(自ら軍を追われる事を承知の上で)「現役」の2文字が外されました。
しかし、実際の運用面では予備役・後備役・退役将官等から軍部大臣に就任した例はなく、一旦現役に復帰してから大臣に就任しており、この規定により任用資格が予備役・後備役・退役将官まで選択肢が広がり、以後組閣時の苦労が激減したのも事実です。
ちなみに英断を下した木越安綱陸軍大臣はその後、軍部の恨みを買って、いうまでもなく昇進の道を失い、まもなく休職し、予備役に成りました。

 しかし、1936(昭和11)年広田弘毅内閣は、寺内寿一陸軍大臣の提案で、23年ぶりに「現役」の2文字が復活。口実として二・二六事件に関与したと思われた皇道派の首領、真崎甚三郎(当時予備役に編入)が軍部大臣に就任を阻止する為とされています。

 内閣は、明治憲法の第55条や第11条等により、元来、軍政コントロールの権限を有していませんでしたが、軍部大臣現役武官制度の定着によって、内閣による文民統制は完全に止めを刺され、喪失しました。
つまり、現役の中大将でもある軍部大臣がノーといえば内閣一体の原則があるので、閣議決定は成立せず、内閣は崩壊してしまいます。
これによって、軍部大臣にだけ拒否権がある、軍部大臣が事実上の首相であるような結果を招き、実際その後、宇垣一成の組閣流産や米内光政内閣の瓦解等、軍部による組閣介入が本格化し、日本の軍国主義の深刻化に拍車をかけることに成ります。

続く・・・

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