人類の軌跡その542:太平洋戦争開戦前夜の日本⑦
<ゾルゲ事件②>

◎ゾルゲ情報団(コードネーム・ラムゼイ)と尾崎秀実
1930年1月、リヒャルト・ゾルゲがドイツの社会学雑誌記者ジョンソンと名乗り、上海に現れます。この当時、中国のコミンテルン組織は1927年の蒋介石による上海クーデター及び武漢政府の弾圧により破壊されており、その再建の為の中国入国という背景が在り、彼の身分はコミンテルンから赤軍参謀本部第4局に移されていたのです。
1933年2月11日、フランス共産党員ブランコ・ド・ヴーケリッチはコミンテルンの密命を受け、
フランスの写真雑誌ラ・ヴュウ及びユーゴスラビアの日刊紙ポリチイカの東京特派員という職名を持って横浜より入国。
1933年5月、ゾルゲはモスクワからベルリンへ向かい、フランクフルター・ツァイトゥング紙の日本特派員の資格を取得し、ナチス党員と成りました。
アメリカに渡り、組織との連絡を取った上、カナダ・バンクーバー経由で日本に向い、1933年9月6日、フランクフルター・ツァイトゥング紙の東京特派員という名目で、横浜に上陸、東京麻布区永坂町30番地に住居を得て、日本に於ける諜報活動を開始したのです。
1933年9月、尾崎秀実は日本に戻り、大阪朝日新聞社の外報部に入社。
1933年10月初旬、アメリカ共産党員、画家の宮城与徳がロスアンゼルスから横浜に到着。
12月下旬、ヴーケリッチの仲立ちでゾルゲと宮城与徳が会談し、連絡体制を構築していきました。
1934年2月11日、天津から大阪に戻った川合貞吉が、尾崎秀実と連絡を取り、至急組織の連絡体制の構築を要請。
2月、ゾルゲと尾崎秀実が奈良の若草山で再会、本拠を日本に移したゾルゲと会談し、親密な関係を構築しました。
ゾルゲ諜報団は、各国から送り込まれたコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家達によって構成され、中でもゾルゲが絶大の信頼を寄せた人物、当時朝日新聞記者であった尾崎秀実は、近衛文麿首相の側近として日本政府の中枢まで潜り込み、決死の覚悟で次々と国家機密をゾルゲに通報して行きます。
その中には日独防共協定、第2次上海事変、ノモンハン事件、そして、最高国家機密である御前会議の内容迄が含まれていました。
ゾルゲは、こうした情報に独自の分析を加え、無線やソビエト大使館員を通じてモスクワのスターリンへ送り続け、やがて、日本の対ソ参戦回避と南方進出を暴露し、ソ連の軍事行動をより有利に導いて行く事になります。
その後、尾崎は、転勤工作で東京朝日新聞本社詰記者となり、東亜問題研究会の新設で東京本社に呼ばれ、中国問題の評論家として頭角を現わして行きます。
1936年末に突発した西安事件の本質をいち早くとらえた事で有名と成りますが、尾崎は当時すでにすぐれたジャーナリストであり、中国問題の専門家として言論界の重鎮に成っていました。
1937年4月、昭和研究会に参加、風見章の知遇を得、翌年7月、朝日新聞社を退社、第1次近衛内閣の嘱託となり、近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内に部屋を持ち、秘書官室や書記官長室に自由に出入りし、政界上層部の動向に直接ふれる事のできる地位に在りました。
1939年1月、尾崎は朝日を退社し、満鉄東京支社調査室へ勤務します。
1940年7月、第2次近衛内閣の成立前後には、風見の依頼で国民再組織案を練る等、国策に参与する機会を得、36年以来本格化した諜報活動の中で、高度な情報と正確な情報分析を提供して、ゾルゲ情報団の日ソ間に於ける戦争回避とソ連防衛の為の活動を援助します。
中国社会の全体的・動態的把握を試みて、中国の民族解放運動=抗日民族統一戦線の意義を解明した尾崎は、日本自体の再編成を必要と考え、東亜共同体論提起しますが、その根本は帝国主義戦争の停止と日中ソ提携の実現であり、その前提として、戦争の不拡大が当面の目標とされたのです。
続く・・・

◎ゾルゲ情報団(コードネーム・ラムゼイ)と尾崎秀実
1930年1月、リヒャルト・ゾルゲがドイツの社会学雑誌記者ジョンソンと名乗り、上海に現れます。この当時、中国のコミンテルン組織は1927年の蒋介石による上海クーデター及び武漢政府の弾圧により破壊されており、その再建の為の中国入国という背景が在り、彼の身分はコミンテルンから赤軍参謀本部第4局に移されていたのです。
1933年2月11日、フランス共産党員ブランコ・ド・ヴーケリッチはコミンテルンの密命を受け、
フランスの写真雑誌ラ・ヴュウ及びユーゴスラビアの日刊紙ポリチイカの東京特派員という職名を持って横浜より入国。
1933年5月、ゾルゲはモスクワからベルリンへ向かい、フランクフルター・ツァイトゥング紙の日本特派員の資格を取得し、ナチス党員と成りました。
アメリカに渡り、組織との連絡を取った上、カナダ・バンクーバー経由で日本に向い、1933年9月6日、フランクフルター・ツァイトゥング紙の東京特派員という名目で、横浜に上陸、東京麻布区永坂町30番地に住居を得て、日本に於ける諜報活動を開始したのです。
1933年9月、尾崎秀実は日本に戻り、大阪朝日新聞社の外報部に入社。
1933年10月初旬、アメリカ共産党員、画家の宮城与徳がロスアンゼルスから横浜に到着。
12月下旬、ヴーケリッチの仲立ちでゾルゲと宮城与徳が会談し、連絡体制を構築していきました。
1934年2月11日、天津から大阪に戻った川合貞吉が、尾崎秀実と連絡を取り、至急組織の連絡体制の構築を要請。
2月、ゾルゲと尾崎秀実が奈良の若草山で再会、本拠を日本に移したゾルゲと会談し、親密な関係を構築しました。
ゾルゲ諜報団は、各国から送り込まれたコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家達によって構成され、中でもゾルゲが絶大の信頼を寄せた人物、当時朝日新聞記者であった尾崎秀実は、近衛文麿首相の側近として日本政府の中枢まで潜り込み、決死の覚悟で次々と国家機密をゾルゲに通報して行きます。
その中には日独防共協定、第2次上海事変、ノモンハン事件、そして、最高国家機密である御前会議の内容迄が含まれていました。
ゾルゲは、こうした情報に独自の分析を加え、無線やソビエト大使館員を通じてモスクワのスターリンへ送り続け、やがて、日本の対ソ参戦回避と南方進出を暴露し、ソ連の軍事行動をより有利に導いて行く事になります。
その後、尾崎は、転勤工作で東京朝日新聞本社詰記者となり、東亜問題研究会の新設で東京本社に呼ばれ、中国問題の評論家として頭角を現わして行きます。
1936年末に突発した西安事件の本質をいち早くとらえた事で有名と成りますが、尾崎は当時すでにすぐれたジャーナリストであり、中国問題の専門家として言論界の重鎮に成っていました。
1937年4月、昭和研究会に参加、風見章の知遇を得、翌年7月、朝日新聞社を退社、第1次近衛内閣の嘱託となり、近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内に部屋を持ち、秘書官室や書記官長室に自由に出入りし、政界上層部の動向に直接ふれる事のできる地位に在りました。
1939年1月、尾崎は朝日を退社し、満鉄東京支社調査室へ勤務します。
1940年7月、第2次近衛内閣の成立前後には、風見の依頼で国民再組織案を練る等、国策に参与する機会を得、36年以来本格化した諜報活動の中で、高度な情報と正確な情報分析を提供して、ゾルゲ情報団の日ソ間に於ける戦争回避とソ連防衛の為の活動を援助します。
中国社会の全体的・動態的把握を試みて、中国の民族解放運動=抗日民族統一戦線の意義を解明した尾崎は、日本自体の再編成を必要と考え、東亜共同体論提起しますが、その根本は帝国主義戦争の停止と日中ソ提携の実現であり、その前提として、戦争の不拡大が当面の目標とされたのです。
続く・・・
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