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2012/12/20

人類の軌跡その543:太平洋戦争開戦前夜の日本⑧

<ゾルゲ事件③>

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◎諜報活動

 1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻を契機に第2次世界大戦が勃発すると、ゾルゲはモスクワ発緊急指令として、独ソ戦に関する日本軍の動向を探る命令を下されます。
重大指令を粛然と受け止めたゾルゲと尾崎は、あらゆるルートを駆使して日本の対ソ戦回避を画策し、その成果として、ヒトラーのソ連侵攻や日本の南進政策決定を事前に捕捉してモスクワに打電していました。

 当時ナチス・ドイツは、電撃作戦を持ってイギリスを除く全ヨーロッパを支配下に収め、その矛先をソ連侵攻に向けていました。
初戦で、尽くソ連軍は撃破され独ソ戦はドイツの優勢のままに推移し、ソ連はウラル山脈西部のほとんどの地域を失い、首都モスクワさえ、占領の危機に陥っていました。
ドイツと日本は、イタリアを含めた三国同盟を結び、枢軸国として世界を席捲しつつ在る中、ソ連は、西側でドイツ、東側で日本との闘いに挟撃される結果となり、ソ連指導部は、対ドイツ・日本との二正面作戦を避け、対ドイツ戦に的を絞る必要が最重要課題でした。

 ゾルゲ情報団に対して、モスクワは「独ソ開戦で、ドイツの同盟国である日本は、如何に動くか?」改めて日本の対ソ参戦決意を探る旨の指令が届き、ゾルゲは、謀報団のメンバー全員に命令を発し、日本の最終意志決定の方向を全力をあげて探らせたのでした。
在京の各国大使館や海外から派遣された外国人のジャーナリストも、対ソ戦に引き込もうとするドイツの働きかけに対して、日本はどう反応するのか、必死の謀報活動を展開したのです。

 この戦略には、先にも少し触れましたが、当時の日本陸海軍内部の対立が大きく関係しており、太平洋戦争の方針を巡って陸軍は「北方進出論」、海軍は「南方進出論」を主張していたのですが、この問題が如何に決着するのか、如何なる手段、犠牲を払っても知り得たい情報で在ったことは確かです。
「北方進出論」とは、共産主義国ソ連との闘いを最優先せねばならないとする理論であり、「南方進出論」とは、資源小国の日本は多種多様な資源の供給路を確保するために南洋諸島へ進出すべしとする理論ですが、この問題に決断を下す為、政府は御前会議を数次開催し、最終的に南方進出を決定します。

 「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」。
ゾルゲはこの情報を尾崎秀実から入手し、モスクワに向けて打電しました。
これこそ、モスクワの知りたい情報でした。
ウラル山脈に舞台を移した独ソ戦で、当時絶望的な戦いを強いられていたソ連はこの情報により、日本の侵略に備えて極東に配置していた精鋭部隊をウラル戦線に移動させることが可能と成り、やがて1942年、冬の訪れとともにソ連はウラル山脈の麓、スターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させます。
これが転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に傾き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定させた戦闘と成りました。

 スターリンのゾルゲ情報活用については、異説が存在しています。
「当面日本がソ連に進撃しないという報告」は、1941年6月22日に始まったドイツの侵攻作戦(ドイツ名・バルバロッサ作戦)への対抗策として、戦略上極めて常用度の高い情報でしたが、この報告に対してスターリン指導部はその真の価値を見出し得なかった、とも云われています。
スターリンは日本の南進を知り、シベリア狙撃兵軍団を東部戦線に送り、モスクワ前面でナチス・ドイツ軍を阻止したとされていますが、スターリンは実際には極東に大戦中40個師団を継続して配置していたとも云われており、この数は関東軍のいずれの時期をも上回っていたと云う指摘も存在し、其れが事実で在るならば、ゾルゲの情報は生かされなかったと云うことになり、その悲劇は計り知れないものが在ります。

 迎えた1941年9月、御前会議に於いて日本軍の南進策が決定し、任務を遂行し終えたゾルゲと尾崎は、ようやくその任務を解かれようとした矢先の10月、警視庁特別高等警察(特高)にゾルゲの組織は、国防保安法、治安維持法違反等の罪状で逮捕されます。
当に日米開戦前夜の為に「国民の士気に影響する」との理由で逮捕情報は秘匿され、数年経ってからようやく発表されるという秘密裏の事件でした。

続く・・・


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