2013/01/09

歴史のお話その7:メソポタミア文明⑦

<メソポタミア文明⑦>

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バビロンの空中庭園

◎空中庭園

 「空中庭園」は、新バビロニア王国のネブカドネザル2世が造営したと、伝えられる建造物で、浮かんでいるという意味ではなく、平地に土を盛り上げ、小山の様に形造った一種の人工の山ですが、草、花、木々を数多く植え、あたかも遠距離から望見すると、天井から吊り下げられた庭に見えるところから、その名前が生まれたのでした。

 ネブカドネザル2世がなぜ「空中庭園」を造ったのかについては、以下の様なお話が、現代に伝わっています。
「ネブカドネザルが、バビロンの王に即位した時、北方のメディア王、キアクセレスの王女を妃に迎えました。
メディアは山国で、果実と花に溢れる土地でしたから、その地で生まれ育った王妃は、平坦でしかも雨の降らないバビロニアが退屈で、何時も生まれ故郷であるメディナの緑の丘や木々、咲き乱れる花々の美しさを懐かしがっていたのでした。
其処で、王は王妃を幸せにする為に、故郷のメディナに在る如何なる種類の庭園よりも、美しい庭園をバビロンの地に造ろうと決心します。
王は優秀な建築家、技術者、工匠を各地から集め、その構想を実現しようと努めます。
王宮の広場の中央に縦横400m、高さ15mも土台を築き、その上に階段状の建造物を建てました。
最上階は、60平方m位の広さですが、高さは、105m(!?)、現在の30階建てのビルに匹敵するものでした。

 雛壇が完成すると、その上に何tもの土壌を運び上げ、一種の花壇を造り夥しい種類の草木を植えたのでした。
処で、この雨の殆ど降ることの無い、乾燥した地方で、此れほど大規模な庭園に水を供給することは、大問題でした。
王は建造物の最上部に水槽を置き、ユーフラテス河の水を汲み上げ、その水を最上階から低部に向けて流したのでし、水は、絶えず花壇に適度な湿り気を与え、更に庭園の低い部分の内側は、常に涼しい状態に保たれた、幾つかの部屋が設けられていました。
この部屋の上部からの水漏れを防いだのは、瀝青を敷き詰め物と云われています。

 二千数百年の昔、メディアの美しい王女を喜ばせた「空中庭園」は、現在、バベルの塔と供に現存していません。
ネブカドネザル2世の名前は、旧約聖書に留められていますが、美しいメディア王女の名前は、現在に伝わっていません。
このお話も一種の、伝説なのです。

◎栄華の跡

 「バベルの塔」も「空中庭園」もその痕跡を現在に留める物では在りませんが、古都バビロンの廃墟は、現在もその面影を残しています。
古都バビロンの発掘は、ドイツの考古学者ロベルト・コルデヴェーの手により、1899年より開始され、20世紀に入ると供に発掘作業は更に、進行したのでした。
メソポタミアで最も著名な都の栄華を極めた時代の宮殿、イシュタール門、城壁等が次々に姿を現したのでした。

 長い時間、人間の世界から全く忘れ去られたバビロンの都は、再び太陽の下に姿を現し、かつての征服者がキャリオットに乗り通った道は、修復され、ライオンを模った色彩タイルは、再びその輝きを取り戻し、イシュタール門も修復され、神殿、宮殿、塔楼の跡も明らかにされました。

 紀元前586年、ナブカドネザル王は、イスラエルの都エルサレムを攻略し、ソロモンの神殿は破壊され、イスラエル人はバビロンに捕囚の身となりました。
その中で、予言者ダニエルは、異邦の神に従わぬ故を持って、ライオンの穴に投げ込まれましたが、神の助けにより何の危害も受けず、無事ライオンの穴から脱出することが出来たと、旧約聖書ダニエル書第六章は伝えています。

 ダニエル書第五章の伝える処によれば、ネブカドネザル王の王子ペルシャザルが、1000人の臣下と大宴席を設け、エルサレムの神殿から略奪した、金杯、銀杯で酒を酌み交わし、偶像を賛美した処、ペルシャザルの前の壁に「メネ、メネ、テケル、ウルバシン」と云う文字が現れ、ダニエルがその言葉の意味を解き明かし、その言葉の通りにペルシャザルは、その夜の内に殺され、バビロニア滅亡の発端と成りました。

 発掘が進み始めた当時、バビロンの廃墟を訪れた旅行者は次の様に述べています。
「かつては、バビロニアの精鋭軍を送り迎え、諸国からの公益で多くの富を積んだ車で賑わったイシュタール門も、今はひっそりとして、薄気味悪い影が漂い、至る処に不気味な静けさが満ち溢れている。
夜更けの冷たい風が、荒廃した城壁の間を吹き抜け、野犬の遠咆が、夜の静寂を破って聞こえて来るばかりである」と。

メソポタミア文明・終わり・・・

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