歴史のお話その14:エジプト文明⑦
<エジプト文明⑦>

王家の谷での発掘作業
◎ツタンカーメンその3
ツタンカーメン自身ついて、彼はイクナートンの息子と推定されています。
イクナートンが32歳で病死した後、王位に即くのですが、エジプトの王位は王の血統を継ぐ娘を妻にする事によって正統なものとされます。
ツタンカーメンはイクナートンの娘アンケセナーメンを妻にして王になりました。
アンケセナーメン自身は、ツタンカーメンより何歳か年上なのですが、一緒に育てられた幼年時代から一緒に暮らしていた様です。
遺宝の中に少年王ツタンカーメンと若い妻アンケセナーメンが、仲睦まじく描かれている玉座も残されています。
このアンケセナーメンですが実は2回目の結婚でした。
一人目の夫は誰あろう実の父イクナートンなのですが、イクナートン自身はアメン神官団との対立の中で自分の王位を強化する目的で、王の娘、自分の娘を妻に加えたと思われます。
父であり夫であるイクナートンが崩御して、彼女は幼なじみのツタンカーメンの妻に成りました。
ツタンカーメンは即位の時、僅か8歳の少年なので、実際に政治を司ってはいないと思います。
執政としてアメン神官団の力が盛り返し、イクナートンの宗教改革を総て取り去ってしまいました。
この時代、実際に政治を取り仕切っていたのが、三人のファラオに仕えてきた老大臣アイと将軍ホレンヘブです。
因みに、ツタンカーメンの死後ファラオとなったのは労大臣アイでした。
そして、アンケセナーメンの3人目の夫でも在りました。
さて、その後も新王国は対外活動に積極的で、シリア方面で外交活動を続けています。
紀元前1285年カデシュの戦いは、新王国とヒッタイトとの戦いでした。
この戦いは、戦争の歴史から見ても重要で、ヒッタイトは史上はじめて鉄器を製作、利用した国で在り、エジプトは青銅器なのです。
鉄器対青銅器の衝突で、結果はヒッタイトの勝利に終わったと思われます。
尚、この戦いの記録が、エジプトでも、ヒッタイトの領土で在った小アジアでも出土しているという点でも有名です。
これ以後、エジプトは「海の民」と呼ばれる人々の侵入をうけて徐々に国力を落とし、紀元前671年にはアッシリアに占領されます。
余談・墓泥棒
王家の谷は、厳重なカラクリを施しても、何時かは墓泥棒に荒らされてしまう現実から、トトメス1世の時、初めて王族の埋葬場所を隠す目的で造営された岩窟墓所でした。
それ以前のピラミッドの玄室は、入口を厳重に塞ぎ、その入口自体も更に厳重に偽装されましたが、盗掘の被害を免れる事は、殆ど不可能でした。
西暦818年、イスラムの支配者 ハルン・アル・ラシッドの息子、アル・マモウムがエジプトのカリフに成った時、彼はピラミッドの中には、膨大な金銀宝石がケオプス王のミイラと供に、眠っていると聞き、その古えからの伝承を信じて、発掘作業を実行しました。
ピラミッドは、厳重に封印されている様子で、本来の入口は発見出来ませんでしたが、彼は多くの労働者を動員して、石のブロックに横穴を穿ちながら、前進して行きました。
石の硬さと道具の貧弱さから、何度も諦め掛けた時、偶然の一撃が本来の回廊の壁を打ち抜いていたのでした。
結果は、残念ながら金銀宝石も巨大な墳墓の主の遺骸も既に遥かな昔、略奪されていたのですが、アル・マモウムの努力は、現在の私たちに取って全くの無駄ではなく、彼の穿った通路のお陰でピラミッドに内部に入る事が出来るのです。
エジプト文明・続く・・・

王家の谷での発掘作業
◎ツタンカーメンその3
ツタンカーメン自身ついて、彼はイクナートンの息子と推定されています。
イクナートンが32歳で病死した後、王位に即くのですが、エジプトの王位は王の血統を継ぐ娘を妻にする事によって正統なものとされます。
ツタンカーメンはイクナートンの娘アンケセナーメンを妻にして王になりました。
アンケセナーメン自身は、ツタンカーメンより何歳か年上なのですが、一緒に育てられた幼年時代から一緒に暮らしていた様です。
遺宝の中に少年王ツタンカーメンと若い妻アンケセナーメンが、仲睦まじく描かれている玉座も残されています。
このアンケセナーメンですが実は2回目の結婚でした。
一人目の夫は誰あろう実の父イクナートンなのですが、イクナートン自身はアメン神官団との対立の中で自分の王位を強化する目的で、王の娘、自分の娘を妻に加えたと思われます。
父であり夫であるイクナートンが崩御して、彼女は幼なじみのツタンカーメンの妻に成りました。
ツタンカーメンは即位の時、僅か8歳の少年なので、実際に政治を司ってはいないと思います。
執政としてアメン神官団の力が盛り返し、イクナートンの宗教改革を総て取り去ってしまいました。
この時代、実際に政治を取り仕切っていたのが、三人のファラオに仕えてきた老大臣アイと将軍ホレンヘブです。
因みに、ツタンカーメンの死後ファラオとなったのは労大臣アイでした。
そして、アンケセナーメンの3人目の夫でも在りました。
さて、その後も新王国は対外活動に積極的で、シリア方面で外交活動を続けています。
紀元前1285年カデシュの戦いは、新王国とヒッタイトとの戦いでした。
この戦いは、戦争の歴史から見ても重要で、ヒッタイトは史上はじめて鉄器を製作、利用した国で在り、エジプトは青銅器なのです。
鉄器対青銅器の衝突で、結果はヒッタイトの勝利に終わったと思われます。
尚、この戦いの記録が、エジプトでも、ヒッタイトの領土で在った小アジアでも出土しているという点でも有名です。
これ以後、エジプトは「海の民」と呼ばれる人々の侵入をうけて徐々に国力を落とし、紀元前671年にはアッシリアに占領されます。
余談・墓泥棒
王家の谷は、厳重なカラクリを施しても、何時かは墓泥棒に荒らされてしまう現実から、トトメス1世の時、初めて王族の埋葬場所を隠す目的で造営された岩窟墓所でした。
それ以前のピラミッドの玄室は、入口を厳重に塞ぎ、その入口自体も更に厳重に偽装されましたが、盗掘の被害を免れる事は、殆ど不可能でした。
西暦818年、イスラムの支配者 ハルン・アル・ラシッドの息子、アル・マモウムがエジプトのカリフに成った時、彼はピラミッドの中には、膨大な金銀宝石がケオプス王のミイラと供に、眠っていると聞き、その古えからの伝承を信じて、発掘作業を実行しました。
ピラミッドは、厳重に封印されている様子で、本来の入口は発見出来ませんでしたが、彼は多くの労働者を動員して、石のブロックに横穴を穿ちながら、前進して行きました。
石の硬さと道具の貧弱さから、何度も諦め掛けた時、偶然の一撃が本来の回廊の壁を打ち抜いていたのでした。
結果は、残念ながら金銀宝石も巨大な墳墓の主の遺骸も既に遥かな昔、略奪されていたのですが、アル・マモウムの努力は、現在の私たちに取って全くの無駄ではなく、彼の穿った通路のお陰でピラミッドに内部に入る事が出来るのです。
エジプト文明・続く・・・
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