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2013/01/24

歴史のお話その20:オリエント史⑤

<オリエント史⑤>

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ニネヴェ王宮復元図

◎アッシリア

 紀元前8世紀から紀元前7世紀、メソポタミアからエジプト迄のオリエント全域をアッシリア帝国が統一しました。
この国を建国したアッシリア人はセム語系です。
紀元前20世紀以前から、ティグリス川上流の都市アッシュールを中心に交易活動等を行い、古バビロニア王国やミタンニに服属していたのですが、紀元前14世紀に、一時独立を回復しますが、その後暫くは目立った活動はありませんでした。

 紀元前9世紀頃から急速に勢力を伸ばし始めますが、この時期から、オリエントは鉄器時代に突入し、アッシリアはこの新技術を取り入れると同時に、常備軍を組織しました。
そして騎兵隊を導入するのですが、当時の馬には未だ鞍もあぶみもついていません。
騎兵が鞍が無い状態で槍を持って敵をつくと反動で馬のうしろに落下し、あぶみ無しで剣を振りおろすと馬の横に滑り落ちる事に成り、騎兵隊の武器は弓を使っていました。

 紀元前8世紀末サルゴン2世の時から首都をニネヴェに定め、飛躍的に領土を拡大し、その後、一時はエジプトも支配下に治めて約100年間の絶頂期を迎えます。

 アッシリアは全国を属州、属国として、多くの民族を支配したのですが、その支配過酷でした。
抵抗した都市の住民の生皮を剥いで城壁に貼りつけ、串刺しにし、力で押さえつけるものですが、
その代表が「強制移住政策」というものです。
この政策は、前回の「ユダヤ人のバビロン捕囚」でも述べましたが、抵抗しそうな地方の民族を総て別の場所に移住させるものです。
生活の基盤を奪われて、一から生活を築いていかなければ成らない為、強制移住を強いられた民族はアッシリアに抵抗する力は在りません。

 しかしながら、この様な強圧的な力による支配は強そうで、その実は脆弱なのです。
支配といは飴とムチを上手に使い分けるものですが、アッシリアの場合は強権だけの政策でした。
100年程、最盛期が続いた後は、各地で反乱が頻発し、一気に衰退の道を辿り、北方のスキタイ人の攻撃と支配下のカルデア人、メディア人等の反乱で首都ニネヴェは紀元前612年に陥落し、紀元前609年、アッシリア帝国は滅亡しました。

◎四国分立時代

 アッシリア滅亡後、オリエントには4つの国が成立し、四国分立時代(紀元前612年~紀元前525年)と呼びます。

 メソポタミアからシリアにかけてのいわゆる「肥沃な三日月地帯」を中心に建国したのが新バビロニア王国、カルデア王国とも呼ばれ、バビロニア南部に居住するカルデア人の建国で、都はバビロン。
この国王ネブカドネザル2世は、ユダ王国を滅ぼして「バビロン捕囚」を実行した人物です。
これは、アッシリアの政策を受け継いでおり、アッシリアもイスラエル王国を滅ぼした時に強制移住を行なっていますから、ネブカドネザル2世の時だけが何故バビロン捕囚として、ユダヤ教成立に大影響を与えたか。不思議に思うのです。

 小アジアに建国したのがリディア王国、この国は最古の鋳造貨幣を造った国で、ギリシア方面とシリア、メソポタミアを結ぶ交易路に位置した事と関連があるのでしょう。
かつて、ほぼ同じ場所にあったヒッタイトで最古の製鉄が行われている事を考えると、この地域は何か特殊な金属加工についての伝統があったのかもしれません。

 イラン高原を中心にできたのが、メディア王国。

 エジプトは独立を回復してサイス朝が成立します。

オリエント史・続く・・・

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