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2013/01/31

歴史のお話その26:東地中海に開花した文明④

<東地中海文明・番外編①トロイを求めて・少年時代の夢に捧げた半生>

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Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822年1月6日 - 1890年12月26日

◎ハインリッヒ・シュリーマン

 彼の生涯を決定付け、考古学の歴史に、重要な一章を書き加えるきっかけと成った、クリスマス・プレゼントを父親から贈られた時、ハインリッヒ・シュリーマンは、僅か7歳の少年でした。
その贈り物とは、挿絵の入った本で、古代ギリシアの軍勢に攻め落とされ、火炎に包まれるトロイの情景が描かれていました。

 この絵を見た瞬間から、シュリーマンの幼い心は激しく、直向な思いに捕らわれたのです。
トロイの遺跡を見つけ、疑い深い世間に、ホメロスのトロイ攻略の話が全くの真実であり、単なる詩的な空想ではない事を、証明してやろうと思ったのでした。
此れは、雑貨屋の使い走りをしている、貧乏牧師の息子には、殆んど不可能な目標に見えましたが、来るべき仕事に備えて、古代ギリシア語を独学し、40歳代の初めには、仕事をやめても十分生活していけるだけの蓄財を築き上げたのでした。
その上、1869年には、理想的な妻となる、ギリシア人の花嫁を見つけました。
彼女は、ソフィアといい、まだ10代のアテネ娘でした。

◎トロイの地

 頭の中を駆け巡る、ヘクトル、アキレス、アイアスの名前を片時も忘れる事はなく、47歳のシュリーマンとソフィアは、ホメロスの「風強きトロイの野」を求めて、ダーダネルスに向けて旅立ちました。
彼は、100人余りの作業員を雇い、発掘作業を開始したのです。
シュリーマンは、トロイがヒッサリックという、標高49mの丘に存在したと云う、地方の伝承を信じ、この話は、ホメロスに関する彼の知識と一致していました。
その丘には、何らかの遺跡が埋蔵されている事は、現地では既に知られていましたが、当時、考古学は現在の様に学問として確立された分野ではなく、又シュリーマン自身も、実際に発掘に携わるのは初めての経験でした。

 作業員達は、ヒッサリックの地下に何が存在するのか確認する為、北側の急斜面に深い溝を掘りました。
一行は、直ぐに何時の時代に属するのかも判らない、入り組んだ遺跡に到達しましたが、後日、この複雑な遺跡は、9個の異なる都市の痕跡が、階層を成して互いに重なり合っているものである事が判明したのです。

 シュリーマンは発掘作業を継続し、終に失われた都市の、高さ6mは在ったと推定される、城壁後に行き着いたのでした。
嘗て、ヘレネの誘拐に報復する為、ギリシア軍の進行をパリスが見守っていたのは、当にこの城壁に上からのはずでした。

◎ヘレネの財宝?

 2年間に及ぶ作業の後、1873年6月14日、彼の目の前には、目も眩む様な財宝が広げられていました。
8700点にのぼる、感嘆すべき金の装飾品の数々で、中でも特に注目に値する出土品は、16,000個の純金の小片で作られた、額から肩まで届く宝冠でした。

 喜びの涙を浮かべながら、彼は美しい妻に宝冠を被せ、彼女を抱きしめて叫んだのです。
「私達の生涯で最も素晴らしい瞬間だ!お前はトロイのヘレネの生まれ変わりだ!」と。
この発見は、発掘作業のロマンティックな終焉に相応しいものでしたが、シュリーマンの判断は間違っていたのです。
彼が発見した古代の都市は、トロイではなく、もっと古い時代に属する都市で、問題に宝冠は、紀元前2300年頃の物であって、ヘレネが生れる1000年以上も昔の、別の王族が身に付けた物でした。

 現在、考古学の定説では、ホメロスによって詠われたトロイは、紀元前1200年頃、ギリシア軍の侵略によって滅亡したものと推定されており、9層に堆積した都市遺構の上部から3層目の都市遺構が、此れに当たるとされています。
シュリーマンは、作業員達がこの層を掘り抜いてしまった為、この都市遺跡を見逃したのでした。

◎夢を追って

 彼が発見した財宝は、ヒッサリックの丘の低部に近い部分に埋没した、他の時代に属する都市の物で、後に彼はその間違いを認めています。
其れでも、現在の研究者達は、ホメロスのトロイ発見の功績と、同じく、更に古い先史青銅器文化の属する古代都市の発見者の名誉を、ハインリッヒ・シュリーマンのものとして彼の功績を称えています。
此れは、夢を追う事に生涯を捧げ、終に其れを成し遂げた、雑貨屋の使い走りの少年に相応しい碑銘でした。

東地中海文明・続く・・・
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