2013/02/04

歴史のお話その29:古代ギリシア②

<古代ギリシアの社会②>

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◎オリンピア

 ポリス同士での戦争は多いのですが、彼らはお互いギリシア人で在る事に、同胞意識を強く持っていました。

 同胞意識で、最初に考えられるのは言語です。
ギリシア語以外の言葉を話す人々をバルバロイと呼び軽蔑していました。
バルバロイとは、汚い言葉を話す人達を意味し、この単語がバーバリアン、野蛮人を意味する英語の語源と成りました。

 次にギリシア全土のポリスが参加する沢山の催事が存在し、その代表的なものがオリンピアの祭典、いわゆるオリンピックです。
紀元前8世紀から4年毎に開かれ、各ポリスから選び抜かれた選手達が、オリンピアに集まり、円盤投げやレスリング等、戦闘行動に直接関わる様な競技を中心に、其々栄誉を競い合うのです。
優勝しても賞金等は在りませんが、全ギリシア世界にその名前が知れ渡り、優勝者の彫像が作られて神殿に奉納される、多大な名誉を伴っていました。

◎「オリンピックの平和」

 オリンピックは、エリスと云うポリスが、オリンピアの祭典を主催するのですが、開催前にはエリスから開催を告げる使者が、全ギリシアのポリスを巡って総ての戦争休戦を告げます。
オリンピックは3ヶ月間に渡って開催されますが、その間一切戦争行為は禁止で、各ポリスはこの御布令を厳守するのです。

 近代オリンピックはクーベルタンが、この古代オリンピックを理想として始められました。
平和の祭典と言いますが、実際には何処かで紛争が起こっています。
現在は起源に成る文化が違う為、なかなか古代ギリシアの様には成らない様です。
何故、ギリシアではスポーツ競技会の為に戦争迄停止した理由は、オリンピックそのものがゼウス神に捧げる儀式で在り、宗教行事の為でした。

 ペルシアの大軍がギリシアに攻め込んできたペルシア戦争の時にも、オリンピックは開催されています。
神に捧げる儀式なので、休戦協定を無視した場合、オリンピックの参加権が無くなり、デルフォイの神託も受ける事が不可能に成りました。
デルフォイの神託はデルフォイ神殿の巫女のお告げで、霊験が在りギリシア人皆が信じているのです。当時のギリシア人も困った時には神のお告げを聞きますので、それが出来なくなるのは困るわけです。

 最後にオリンピックは女人禁制でした。
会場は神聖な場所なので、見物客は4万人位集まったと伝えられていますが、皆男性、そして選手は皆全裸。
古代ギリシアは男の世界だった様です。

参考・マラソン競技の起源

 近代オリンピックの華と呼称される「マラソン競技」ですが、この「マラソン競技」が古代オリンピックにおいても行われていたと考える人も居りますが、それは誤りです。
近代オリンピックは、フランスのクーベルタンの提案で始められ、その第一回大会は、1896年、古代オリンピック発祥の地、アテネで開催されました。

 その第一回大会の時、フランスの言語学者 ミシェル・ブレアルの提案から現在の「マラソン競技」が始りました。
ブレアルは、紀元前490年、アテネ陸軍がペルシャの大軍をマラトンの野に撃破し、ギリシアを救った時に在ったとして伝わっている話を基に「マラソン競技」を提唱したのでした。

 マラトンの野は、アテネの北東に位置し、予てよりギリシア侵略を目論んでいた、時のペルシャ王ダリウスは、紀元前490年、600隻の大艦隊をアテネに送り、マラトンの野に上陸(第二次ペルシャ戦争)し、アテネは、1万人の重装歩兵でこれを迎え撃ちました。
アテネは、スパルタに援軍を求め、俊足のペイディッピデスを伝令に出し、彼は、アテネ、スパルタ間240kmを二日で走破したと伝えられています。

 しかし、その時スパルタは、祭りの最中で、祭りが終わる1週間後の満月の日に成る迄、援軍を出せませんでした。
其の内、援軍の到着を待たずして、ペルシャ軍とアテネ軍の間に戦闘が、勃発しました。
此れを「マラトンの戦い」と云い、ペルシャ軍の勢力は、アテネ軍の10倍と云われますが、戦闘は、地形を有利に展開したアテネ軍の勝利に終わりました。
当時の記録では、ペルシャ軍の戦死者は。6000人を超える数で在ったにも係らず、アテネ軍の喪失は、200人に満たなかったと記録されています。

 この勝利を知らせる為に、ある男がアテネ市迄全力で走りました。
彼はアテネ市の入口で「喜べ!勝った!」と一声叫び、息を引取ったと云います。
此れが「マラソン競技」の起源に成った事件で、今日のマラソン競技の距離42.195kmは、マラトンとアテネの距離と伝えられています。

 この様に伝えられる「マラソン競技」の起源には、多くの不明な点が多く存在します。
まず、第一に本当に戦勝を伝える者が居たのでしょうか?
「ペルシャ戦争」の歴史を記したヘロドトス(紀元前5世紀)は、当時の歴史上のエピソードは殆んど網羅しているにも係らず、この走者の話を伝えていません。

 この走者の話を最初に伝えたのは、「英雄伝」で有名なプルタルコスとルキアノスですが、マラトンの戦いから500年以上の後の人物で、「英雄伝」の中でプルタルコスが紹介しているヘラクレイデスは、紀元前4世紀の人物で、時代が異なります。
この様に勝利を伝えた走者の話は、後世の想像である様です。

 第二の疑問は、走者の名前で、スパルタ迄伝令に走った、ペイディッピデス、更にはテルシッポス、エウクレス、ディオメデスの名前が、伝えられていますが、定かでは有りません。
駄々、勝利を伝える伝令をアテネに出した事は、事実と考えられますが、勝利を伝えて息絶えた下りは、話を面白く脚色したもので、その為走者の名前が、曖昧になっていると考えられます。

 第三の疑問は、マラソン競技の距離の基と成った、マラトン・アテネ間の42.195kmがどの様に計測されたのかと言う点です。
1927年国際陸上連盟が調査を依頼し、翌年ギリシアが、マラトン・アテネ間の距離として出された結果は、36.75kmで、最初の数字の根拠が、依然曖昧なままなのです。

 さて、アテネで開催された「第一回近代オリンピック」では、アメリカがメダルの大多数を占め、開催国ギリシアは、不振でした。
しかし、マラソン競技に優秀したのは、ギリシア人 スピリドン・ルーエスで、記録は2時間55分。
時のギリシア皇太子兄弟が、彼を肩車に乗せて、貴賓席迄運び、ルーエスは、ブレアルの寄贈した記念杯を受け取ったのでした。

古代ギリシアの社会・続く・・・

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