2013/02/07

歴史のお話その32:古代ギリシア⑤

<古代ギリシアの社会⑤>

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◎ペルシア戦争・民主政治の第二段階、無産階級の台頭

 アテネ民主政治の第二段階はペルシア戦争(紀元前492年~紀元前479年)でした。
この戦争を通じて、武具を自己負担出来ない貧困平民も政治参加できるようになります。
ペルシア戦争は、アケメネス朝ペルシアがギリシアに侵攻し、それをアテネ等のポリスが迎え撃つ戦争です。

 戦争の発端は、ペルシア支配下のギリシア人の反乱でした。
ペルシアの支配下に入っていたイオニア地方のミレトスが、ペルシア帝国に反乱を起こし、この反乱自体はすぐに鎮圧されるのですが、アテネが反乱を援助していた事にペルシアのダレイオス1世は激怒です。
ペルシア帝国から見ればギリシア世界は弱体地域ですが、この策動を見逃しては、帝国として黙認出来なかったのでしょう。
但し、紀元前492年~紀元前479年の間、戦争を継続していた訳ではなく、断続的に何回かの戦闘が在り、最初の大きな戦いが紀元前490年のマラトンの戦いです。

 マラトンの戦いは、マラソン競技の起源として有名ですが、この話しは先のオリンピアで紹介しました。
マラトンはアテネの北東約30キロにある海岸の地名で、エーゲ海に突き出たアッティカ半島の、アテネとは山を越えた反対側の海岸で、ここにペルシア軍3万人が上陸します。
アテネも全軍が出動して、これに対峙しました。
アテネ軍9000人、これに他のポリスからの応援が1000人、合計1万の重装歩兵がギリシア連合軍です。

 ギリシア最強の陸軍国スパルタは、満月以前の出陣を禁じた掟に従って参戦していません。
ギリシア軍は海岸に布陣したペルシア軍から1500メートル程離れて布陣します。
ペルシア軍の主力戦法は弓兵隊で、弓を敵に打ち込んで混乱させてから白兵戦に持ち込みます。
戦闘開始とともに、重装歩兵達は弓の射程の中を全力で走り抜けました。
重装歩兵の突撃に慣れないペルシア側は算を乱して海上に逃れ、アテネ軍の死者は192名、ペルシア軍は死者6400名と伝えられています。
この時のアテネの将軍はミルティアデスです。

 ペルシア軍は退却しましたが、この段階で全アテネ軍はマラトンに出陣しているのでアテネ市は、全くの無防備な状況でした。
海上に逃れたペルシア軍が、半島を回り込んでアテネに再度上陸進攻した場合、必ず街は陥落です。重装歩兵1万は、正に重装備をつけたまま山越えを敢行して、アテネ迄の30キロを駆け抜けます。

 アテネに戻ると、未だペルシア軍艦艇の姿は無く、やがてペルシア軍船が半島を回り込んだ時には、アテネ軍が海岸に布陣している姿を見て撤退したのが、実際のマラトンの戦いです。
このときのペルシア側の戦い方は、無理をせず相手の戦法を観察したのでしょう。

古代ギリシアの社会・続く・・・


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