歴史のお話その33:古代ギリシア⑥
<古代ギリシアの社会⑥>

三層櫂船・Wikipediaより
◎ペルシア戦争・民主政治の第二段階、無産階級の台頭その②
マラトンの戦いから10年後、今度はペルシアの大王クセルクセス自ら、軍隊を率いて進軍してきました。
今度は陸軍30万人、海軍1000隻の大勢力で、この大軍はダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島を南下、これを迎え撃ったのがスパルタ軍を中心とするギリシア軍7000なのですが、あまりにも劣勢でした。
オリンピアの祭りで兵力を集められなかった結果ですが、この時スパルタ軍は最後の一人まで戦い抜いて全員玉砕しました。
これを、テルモピレーの戦い(紀元前480年)と呼びます。
この戦いの指揮を執ったスパルタ王レオニダスは、後々迄讃えられました。
テルモピレーの防衛線を突破したペルシア軍は、ギリシア本土に怒濤の進撃を開始、多くのポリスを攻略し、アテネも例外ではなく、ペルシア軍に占領され街は破壊されました。
ところで、そのアテネが攻略される以前、アテネの指導者達は、先に少し触れたデルフォイにペルシア軍が攻めてきた場合の対処について、お伺いを立てていました。
その時の神託は、「町も神殿も焼け落ちるだろう。しかし、木の壁に頼る限り、難攻不落である」
この神託をどう解釈するかで指導者達の意見は分かれました。
「木の壁」とは何か?
当時アクロポリスの上のパルテノン神殿は木で造られており、本来アクロポリスは戦争の時の最後の砦なので、「これはアクロポリスに立て籠って戦えというお告げだ」と考える人達と、「木の壁」とは船の事である、と考える人達が居たのです。
結局「船」の意見が通り、この日に備えてアテネは軍船を大量に建造していました。
ペルシア軍がアテネを占領した時には、女性や子供は離れ小島に待避して、男達は最後の海戦に備えて準備を整えていたのです。
当時の軍船は三段櫂船で、船の先端に衝角(ラム)と呼ばれる鉄の角が装備され、これを敵船の船体に突入させ、穴をあけて沈めてしまうのが海戦の主だった戦法なので、船の機動力が高い方が当然有利な為、船速を上げる為に漕ぎ手が多く必要でした。
一隻の乗員が200人程で、漕ぎ手が180人。
船の漕ぎ手は、奴隷達と思われますが、自分の乗っている船が、沈没する様な事態に陥った場合、船と運命を共にする事に成ります。(時代は異なりますが、映画ベン・ハーでも同様なシーンが在りました)
アテネは軍船を200隻建造しましたが、単純計算で乗組員全員、4万人が必要に成ります。
このときに漕ぎ手となったのが、それまで戦争に参加する事が出来なかった貧困平民です。
アテネを守る為に本来奴隷の仕事を引き受け、武器自弁が出来なくても身体さえあれば船を漕げるのです。
彼等は自分達のポリスを守る為の戦いなので、士気は極めて高く、一方のペルシア海軍の漕ぎ手は奴隷でした。
しかも、アテネ側はペルシア海軍を狭いサラミス湾に誘い込みます。
アテネのすぐ沖の海域なので、海流、暗礁等海底の地形もアテネ側には判っていますから戦闘が開始されると、当然有利に作戦は展開し、サラミスの海戦でペルシアは敗走しました。
この時、クセルクセス大王は最終勝利をその目で見ようと岬の上から観戦していたのですが、ペルシア海軍の軍船が次々に撃破される有様を見てしまい、クセルクセスは退却命令を出し、真っ先にギリシアから逃れていきました。
陸上は制圧しているのに何故撤退しなければ成らないのでしょう?
ギリシアは山国でもともと食糧に乏しい為、ペルシア軍の兵糧は現地調達が難しく、30万ペルシア兵の兵糧は、海上輸送を想定していたのです。
その海軍が撃破され、制海権をアテネに握られた結果、ギリシアに上陸遠征した30万人は正に餓死する結果になるのです。
この後、退却するペルシア軍とギリシア軍の戦いは発生しますが、基本的にはサラミスの海戦で決着はついていたのです。
サラミスの海戦を指揮したアテネの将軍がテミストクレス、その後政治の場に現れそうに成りますが、陶片追放でアテネを追われてしまいました。
因みに亡命先は、ペルシアでした。
戦争が終結し、サラミスの海戦で活躍した漕ぎ手、貧困平民の発言力が当然ながら増してきます
当時、何時ペルシアが報復戦を仕掛けてくるか判らない為、彼らの要求を承諾せざるを得ず、結果として、総ての市民に参政権が与えられる事になりました。
貧困平民と表現しましたが、現代なら「無産市民」財産のない市民という意味です。
古代ギリシアの社会・続く・・・

三層櫂船・Wikipediaより
◎ペルシア戦争・民主政治の第二段階、無産階級の台頭その②
マラトンの戦いから10年後、今度はペルシアの大王クセルクセス自ら、軍隊を率いて進軍してきました。
今度は陸軍30万人、海軍1000隻の大勢力で、この大軍はダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島を南下、これを迎え撃ったのがスパルタ軍を中心とするギリシア軍7000なのですが、あまりにも劣勢でした。
オリンピアの祭りで兵力を集められなかった結果ですが、この時スパルタ軍は最後の一人まで戦い抜いて全員玉砕しました。
これを、テルモピレーの戦い(紀元前480年)と呼びます。
この戦いの指揮を執ったスパルタ王レオニダスは、後々迄讃えられました。
テルモピレーの防衛線を突破したペルシア軍は、ギリシア本土に怒濤の進撃を開始、多くのポリスを攻略し、アテネも例外ではなく、ペルシア軍に占領され街は破壊されました。
ところで、そのアテネが攻略される以前、アテネの指導者達は、先に少し触れたデルフォイにペルシア軍が攻めてきた場合の対処について、お伺いを立てていました。
その時の神託は、「町も神殿も焼け落ちるだろう。しかし、木の壁に頼る限り、難攻不落である」
この神託をどう解釈するかで指導者達の意見は分かれました。
「木の壁」とは何か?
当時アクロポリスの上のパルテノン神殿は木で造られており、本来アクロポリスは戦争の時の最後の砦なので、「これはアクロポリスに立て籠って戦えというお告げだ」と考える人達と、「木の壁」とは船の事である、と考える人達が居たのです。
結局「船」の意見が通り、この日に備えてアテネは軍船を大量に建造していました。
ペルシア軍がアテネを占領した時には、女性や子供は離れ小島に待避して、男達は最後の海戦に備えて準備を整えていたのです。
当時の軍船は三段櫂船で、船の先端に衝角(ラム)と呼ばれる鉄の角が装備され、これを敵船の船体に突入させ、穴をあけて沈めてしまうのが海戦の主だった戦法なので、船の機動力が高い方が当然有利な為、船速を上げる為に漕ぎ手が多く必要でした。
一隻の乗員が200人程で、漕ぎ手が180人。
船の漕ぎ手は、奴隷達と思われますが、自分の乗っている船が、沈没する様な事態に陥った場合、船と運命を共にする事に成ります。(時代は異なりますが、映画ベン・ハーでも同様なシーンが在りました)
アテネは軍船を200隻建造しましたが、単純計算で乗組員全員、4万人が必要に成ります。
このときに漕ぎ手となったのが、それまで戦争に参加する事が出来なかった貧困平民です。
アテネを守る為に本来奴隷の仕事を引き受け、武器自弁が出来なくても身体さえあれば船を漕げるのです。
彼等は自分達のポリスを守る為の戦いなので、士気は極めて高く、一方のペルシア海軍の漕ぎ手は奴隷でした。
しかも、アテネ側はペルシア海軍を狭いサラミス湾に誘い込みます。
アテネのすぐ沖の海域なので、海流、暗礁等海底の地形もアテネ側には判っていますから戦闘が開始されると、当然有利に作戦は展開し、サラミスの海戦でペルシアは敗走しました。
この時、クセルクセス大王は最終勝利をその目で見ようと岬の上から観戦していたのですが、ペルシア海軍の軍船が次々に撃破される有様を見てしまい、クセルクセスは退却命令を出し、真っ先にギリシアから逃れていきました。
陸上は制圧しているのに何故撤退しなければ成らないのでしょう?
ギリシアは山国でもともと食糧に乏しい為、ペルシア軍の兵糧は現地調達が難しく、30万ペルシア兵の兵糧は、海上輸送を想定していたのです。
その海軍が撃破され、制海権をアテネに握られた結果、ギリシアに上陸遠征した30万人は正に餓死する結果になるのです。
この後、退却するペルシア軍とギリシア軍の戦いは発生しますが、基本的にはサラミスの海戦で決着はついていたのです。
サラミスの海戦を指揮したアテネの将軍がテミストクレス、その後政治の場に現れそうに成りますが、陶片追放でアテネを追われてしまいました。
因みに亡命先は、ペルシアでした。
戦争が終結し、サラミスの海戦で活躍した漕ぎ手、貧困平民の発言力が当然ながら増してきます
当時、何時ペルシアが報復戦を仕掛けてくるか判らない為、彼らの要求を承諾せざるを得ず、結果として、総ての市民に参政権が与えられる事になりました。
貧困平民と表現しましたが、現代なら「無産市民」財産のない市民という意味です。
古代ギリシアの社会・続く・・・
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