2013/02/09

歴史のお話その34:古代ギリシア⑦

<古代ギリシアの社会⑦>

201105101952133f3.jpg

◎ペリクレス時代

 アテネ民主制発展の最終段階がペリクレス時代(紀元前443年~紀元前429年)です。
ペリクレスの時代にアテネの民主制は完成し、この時代アテネの絶頂期でも在りましたので、その時代の指導者の名をとって、 ペリクレス時代と呼んでいます。

 民会、国政の最高機関で、18歳以上の男子市民による直接民主政です。
財産に関係なく、誰でも民会に参加できましたが、この民会は今の日本で言えば国会に相当します。現在の日本では、国会の審議に不満を持ち、一言議会に物申したいと思っても、一国民が国会に行っても議場に入る事は許されません。
私は国会議員では在りませんし、国民に選ばれた者が国政について話し合う現在の仕組みは「間接民主制」、アテネは直接民主政なのです。

 どちらが民主主義として理想かと言えば、誰でも物申せる直接の方が良いので、在る意味このアテネの民主政は、一つのお手本でも在る訳です。

 もう一つのアテネの政治の特徴は、公職担当者を抽選で選んだ点です。
現代に言い換えれば、総理大臣も裁判官も役人もクジで選び、クジに当選した場合は、誰でもその職務を遂行する制度です。
制度的には、少なくとも役人は自分はエリートだと威張る事は少ないと思われ、当人は偶然クジで選ばれただけなので、腐敗も殆ど無いと思います。

 現代の官僚制と比較してこの様な部分は評価できるのだと思います。
現在の政治経済は 非常に複雑な為、抽選制を現在に於いて、実施することは不可能です。

 国家財政の知識が無い人物が、日本銀行総裁に当選しても何をしたらいいか全然分かりませんね。
この時代はポリスの規模も小さく、それほど複雑な行政制度も存在しないので抽選が可能でした。
アテネの人々はこの様な政治制度を誇っていましたし、ある意味では徹底的に公平なのです。

 政府の公職はクジで選んだのですが、例外の職務が存在していました。
軍人、其れも将軍です。
戦争の指揮は、誰でも出来るものではなく、ある種の才能や人望が必要です。
もし無能な者が将軍になって戦争に負けた場合、其れはポリスの滅亡崩壊を意味します。
その為将軍職は選挙で選びました。
ペリクレスは、この将軍職に15年連続して選ばれ、その地位からアテネの政治を指導したのです。
完全に平等の様に見えても、やはり指導者は必要でした。

 古代ギリシア民主主義の陰の部分を紹介しておきます。
ギリシアは奴隷制度の社会で、奴隷制の上に成り立った民主主義で在る事を忘れてはなりません。
当時のアテネの人口は、市民が18万人、奴隷が11万人くらいでした。
この奴隷は喋る家畜と考えられ、人間としての権利等は全く存在せず、この奴隷の労働力の上に成り立った市民達の民主政です。

 更に、市民でも女性は権利が無く、女性は子供を産む為の存在でした。
民会も参加不可能、しかも男達からは対等な人格を持った存在とは考えられておらず、従って対等な人格が存在しませんから愛も生まれません。
市民18万人中、民会に参加できる成年男子人口は4万人、奴隷もいれれば、全人口約30万人中の4万人だけが参政権を持つ、その様な民主政だったのです。

 民会はどのくらい開かれたかというと年間40回程でした。
ほぼ一週間に一回の割合です。
4万人全員が参加する訳ではなく、参加者は6000人位で、これがアゴラ(ポリスの中心にある広場)に集まって、議論するのです。

 ペリクレス時代のアテネは、ギリシアポリスの盟主で、サラミスの海戦でペルシア軍は撤退しましたが、又何時攻めてくるか分かりません。
そこで、各ポリスは対ペルシアの軍事防衛同盟を結成し、これをデロス同盟と呼びます。
アテネはデロス同盟の盟主として、全ギリシアに号令する立場についたのでした。

古代ギリシアの社会・続く・・・


スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

トラックバック

世界の歴史 ギリシアとローマ 1/2~マケドニア王

アテネ民主政治の仕組み 古代民主政治の基本的な原理は、市民の間に治める者と治められる者との差別をなくすることにあった。つまり職業的官僚を認めないのである。そのために役人の任期を限定する必要があり、それは1年で重任再任を禁止した。もっとも10人の将軍のように経験を必要とした重い役は何度でも重任を認め、事実ペリクレスは15年間連年この役についていた。また財産によって就任資格が決められることもこの...