歴史のお話その37:アレクサンドロス王①
<アレクサンドロスの東方遠征①>

マケドニア式ファランクス
◎マケドニア
ギリシアの北方にマケドニアという国が在りました。
バルカン半島の南端、アテネ等のポリスが点在する地域が先進地域と仮定すれば、マケドニアは後進地域です。
マケドニア人はギリシア人の一派ですが、アテネ等ギリシア中心部の人々と比較して、言葉に地方性が強く、アテネ等の人々はバルバロイ(汚い言葉を話す者達)と呼んで軽蔑の対象と成っていました。日本でも、平安時代の近畿圏の人たちが、東北地方の人々を「蝦夷」として自分たちとは別の人々と考えていたことと似ています。
更にマケドニア人はポリスを形成しておらず、王の下に貴族層が支配者層を形成しており、その様な意味でも遅れた地方と見なされていたのです。
マケドニアは、南方の先進地域が指導権争いで衰退していく間に、力を付けて行きました。
マケドニアを一大強国に発展させたのが、フィリッポス2世(在位紀元前359年~紀元前336年)。
彼は、若いときにテーベの人質に成った経験が在り、その時期は、エパミノンダスが斜線陣でスパルタを破り覇権を握った頃でした。
そのテーベの時代に、重装歩兵の戦術を肌で学び、マケドニアの王位に就いたのです。
マケドニアの軍制は、貴族の騎兵が中心ですが、農民を重装歩兵に整備して、フィリッポスは軍制改革を成功させ、王権も強化します。
やがて、相変わらずポリス間の対立抗争が続く、ギリシア本土に進出しました。
アテネ・テーベ連合軍が、マケドニア軍を迎え撃ったのが紀元前338年のカイロネイアの戦いです。
最終的にマケドニアが勝利を握り、ギリシアのポリス世界はその支配下に入りました。
独立を失った諸ポリスの人々の間に、親マケドニア派と反マケドニア派が発生してきます。
あくまでも独立と民主政の伝統を守る立場の人々は反マケドニア、ポリス間の長い抗争に終止符を打ちたい人々は親マケドニアです。
親マケドニア派は更にマケドニアを押し立ててペルシアに対する報復戦争を考えていたようです。
この様な情勢の中で、紀元前336年フィリッポス2世が暗殺されます。
齢40代半ばでしたが、反マケドニア派にとっては絶好の機会でした。
独立を回復するにはフィリッポスの死ほどありがたいものは無く、マケドニアはフィリッポス一代で強国に成り上がったのですから、彼さえ居なければマケドニアの支配は、直ぐに崩れるだろうと考えたのです。
フィリッポスには息子が居ましたが、当時20歳で、こんな若者にフィリッポスの跡を継げるわけがないと考えるのは当然の成り行きでした。
アレクサンドロスの東方遠征・続く・・・

マケドニア式ファランクス
◎マケドニア
ギリシアの北方にマケドニアという国が在りました。
バルカン半島の南端、アテネ等のポリスが点在する地域が先進地域と仮定すれば、マケドニアは後進地域です。
マケドニア人はギリシア人の一派ですが、アテネ等ギリシア中心部の人々と比較して、言葉に地方性が強く、アテネ等の人々はバルバロイ(汚い言葉を話す者達)と呼んで軽蔑の対象と成っていました。日本でも、平安時代の近畿圏の人たちが、東北地方の人々を「蝦夷」として自分たちとは別の人々と考えていたことと似ています。
更にマケドニア人はポリスを形成しておらず、王の下に貴族層が支配者層を形成しており、その様な意味でも遅れた地方と見なされていたのです。
マケドニアは、南方の先進地域が指導権争いで衰退していく間に、力を付けて行きました。
マケドニアを一大強国に発展させたのが、フィリッポス2世(在位紀元前359年~紀元前336年)。
彼は、若いときにテーベの人質に成った経験が在り、その時期は、エパミノンダスが斜線陣でスパルタを破り覇権を握った頃でした。
そのテーベの時代に、重装歩兵の戦術を肌で学び、マケドニアの王位に就いたのです。
マケドニアの軍制は、貴族の騎兵が中心ですが、農民を重装歩兵に整備して、フィリッポスは軍制改革を成功させ、王権も強化します。
やがて、相変わらずポリス間の対立抗争が続く、ギリシア本土に進出しました。
アテネ・テーベ連合軍が、マケドニア軍を迎え撃ったのが紀元前338年のカイロネイアの戦いです。
最終的にマケドニアが勝利を握り、ギリシアのポリス世界はその支配下に入りました。
独立を失った諸ポリスの人々の間に、親マケドニア派と反マケドニア派が発生してきます。
あくまでも独立と民主政の伝統を守る立場の人々は反マケドニア、ポリス間の長い抗争に終止符を打ちたい人々は親マケドニアです。
親マケドニア派は更にマケドニアを押し立ててペルシアに対する報復戦争を考えていたようです。
この様な情勢の中で、紀元前336年フィリッポス2世が暗殺されます。
齢40代半ばでしたが、反マケドニア派にとっては絶好の機会でした。
独立を回復するにはフィリッポスの死ほどありがたいものは無く、マケドニアはフィリッポス一代で強国に成り上がったのですから、彼さえ居なければマケドニアの支配は、直ぐに崩れるだろうと考えたのです。
フィリッポスには息子が居ましたが、当時20歳で、こんな若者にフィリッポスの跡を継げるわけがないと考えるのは当然の成り行きでした。
アレクサンドロスの東方遠征・続く・・・
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