歴史のお話その52:ローマ帝國の発展④
<ローマ④>

ローマの奴隷市・古代ローマ人の24時間より
◎ローマ社会の変質と動揺
1、農民層の没落
「長期化する従軍→農地の荒廃→農民=重装歩兵の没落」
ローマは地中海世界を取り巻く大領域国家に発展していくのですが、領土拡大することは、戦争が日常的に行われていることに成ります。
ポエニ戦争中もマケドニア、ギリシア方面で同時に軍事行動を継続していました。
「長期化する従軍」はその様な意味で、重装歩兵として出陣する兵士は何年も、戦争に行ってなかなか故郷に帰れない事態も起こってきます。
ローマ市民権を持つ自作農民達が、武器自弁で重装歩兵と成っているのですから、ローマの農業労働者数が、減少する傾向にある訳です。
従って残されたローマの農家では、残された兵士の妻やその祖父母が農作業を行なっている訳ですが、根本的に主力の働き手が不在な為、残された家族に病気や、現在で云う処の高齢化が進めば、もうまともに農業が続けられないのです。
更には、持っている農地全部を耕作できない、という状況が生まれてきました。
農業を諦めて離農する者達も出で、彼らは土地を売って生活費を捻出するのですが、一方戦争が終わり兵士が帰国してみると、実家では土地を手放していて農業が出来ない、と云う事態が頻発しました。
これが「農民=重装歩兵の没落」です。
では自作農が手放した土地を買ったのは誰なのでしょう。
これが貴族です。
彼らは大土地所有者となり、農場経営を行い、この大農場をラティフンディアと云います。
ラティフンディアが拡大、発展するのが紀元前2世紀後半、貴族が経営するラティフンディアで働いたのが奴隷です。
ローマは戦争で勝利を重ねていますから、戦争捕虜や被征服民が奴隷として、ローマに連れてこられました。
奴隷人口は急増し、更に新しく補充され続け、家畜より安く手に入る様に成りました。
奴隷を働かせるのが一番お金もかからず、食事を与えず死んでしまっても、いくらでも新しい奴隷は補充されました。
奴隷は、逃亡防止と識別の為に半分坊主刈りに成っており、額には所有者の名が焼きゴテで捺してありました。
宿舎は家畜小屋の隣、飲み物は海水で薄めた葡萄酒。海水で薄めてあるのは塩分補給のためです。
この様に奴隷を労働力として使用した結果、没落した農民が小作農になろうと思っても、ラティフンディアでは雇ってもらえません。
この為、没落農民達は家族ごと都市に流れ込んできます。
彼等をルンペン・プロレタリアートと後に呼びますが、遊民と訳しています。
仕事なくて、放浪していると云う意味で、現代風に言えば失業者、ホームレスと似た感じでしょうか。
ローマ市にやってくれば、有力貴族がそれなりに彼らの面倒を見てくれるのです。
彼ら遊民は、有力貴族の庇護民と成り、選挙の時等は貴族の為に一肌脱ぐ、そんな関係があるのです。
又、ローマの属州から運ばれた税金、食糧、もろもろの富で、市民権さえあればそれなりの生活は政府から保障されました。
しかしながら、ローマの中堅市民である農民が没落することは、重装歩兵の兵力が減るわけです。
簡単に云えば、これはローマ軍の弱体化につながり、領土を拡大してきた強いローマ軍が弱くなってしまい、ローマはこのままでよいのか、と心ある政治家たちは考えたのです。
ローマ・続く・・・

ローマの奴隷市・古代ローマ人の24時間より
◎ローマ社会の変質と動揺
1、農民層の没落
「長期化する従軍→農地の荒廃→農民=重装歩兵の没落」
ローマは地中海世界を取り巻く大領域国家に発展していくのですが、領土拡大することは、戦争が日常的に行われていることに成ります。
ポエニ戦争中もマケドニア、ギリシア方面で同時に軍事行動を継続していました。
「長期化する従軍」はその様な意味で、重装歩兵として出陣する兵士は何年も、戦争に行ってなかなか故郷に帰れない事態も起こってきます。
ローマ市民権を持つ自作農民達が、武器自弁で重装歩兵と成っているのですから、ローマの農業労働者数が、減少する傾向にある訳です。
従って残されたローマの農家では、残された兵士の妻やその祖父母が農作業を行なっている訳ですが、根本的に主力の働き手が不在な為、残された家族に病気や、現在で云う処の高齢化が進めば、もうまともに農業が続けられないのです。
更には、持っている農地全部を耕作できない、という状況が生まれてきました。
農業を諦めて離農する者達も出で、彼らは土地を売って生活費を捻出するのですが、一方戦争が終わり兵士が帰国してみると、実家では土地を手放していて農業が出来ない、と云う事態が頻発しました。
これが「農民=重装歩兵の没落」です。
では自作農が手放した土地を買ったのは誰なのでしょう。
これが貴族です。
彼らは大土地所有者となり、農場経営を行い、この大農場をラティフンディアと云います。
ラティフンディアが拡大、発展するのが紀元前2世紀後半、貴族が経営するラティフンディアで働いたのが奴隷です。
ローマは戦争で勝利を重ねていますから、戦争捕虜や被征服民が奴隷として、ローマに連れてこられました。
奴隷人口は急増し、更に新しく補充され続け、家畜より安く手に入る様に成りました。
奴隷を働かせるのが一番お金もかからず、食事を与えず死んでしまっても、いくらでも新しい奴隷は補充されました。
奴隷は、逃亡防止と識別の為に半分坊主刈りに成っており、額には所有者の名が焼きゴテで捺してありました。
宿舎は家畜小屋の隣、飲み物は海水で薄めた葡萄酒。海水で薄めてあるのは塩分補給のためです。
この様に奴隷を労働力として使用した結果、没落した農民が小作農になろうと思っても、ラティフンディアでは雇ってもらえません。
この為、没落農民達は家族ごと都市に流れ込んできます。
彼等をルンペン・プロレタリアートと後に呼びますが、遊民と訳しています。
仕事なくて、放浪していると云う意味で、現代風に言えば失業者、ホームレスと似た感じでしょうか。
ローマ市にやってくれば、有力貴族がそれなりに彼らの面倒を見てくれるのです。
彼ら遊民は、有力貴族の庇護民と成り、選挙の時等は貴族の為に一肌脱ぐ、そんな関係があるのです。
又、ローマの属州から運ばれた税金、食糧、もろもろの富で、市民権さえあればそれなりの生活は政府から保障されました。
しかしながら、ローマの中堅市民である農民が没落することは、重装歩兵の兵力が減るわけです。
簡単に云えば、これはローマ軍の弱体化につながり、領土を拡大してきた強いローマ軍が弱くなってしまい、ローマはこのままでよいのか、と心ある政治家たちは考えたのです。
ローマ・続く・・・
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