歴史のお話その60:ローマ帝國の発展⑫
<ローマⅫ>

アントニウスとクレオパトラの出会い
◎帝政の開始そのⅡ
東方に赴いたアントニウスが、出会った人物がクレオパトラで、当時アントニウスは40歳、クレオパトラは28歳。
クレオパトラは贅の限りを尽くして、アントニウスを歓待し、彼の心を虜にしてしまい、暗殺されたカエサルに代わる、ローマの実力者を後ろ盾にしたのでした。
クレオパトラにとってこの行動は政治的打算と思われますが、実際にこの二人はかなり強い精神的な結びつきも存在する様です。
後に、正式に二人は結婚し、クレオパトラは彼の子を三人授かり、アントニウスはローマ領の一部をクレオパトラに譲っています。
アントニウスは独断で、領土割譲を行いましたから、当然ながらローマ政界での評判はどんどん悪く成ります。
オクタヴィアヌスは政略結婚で自分の姉をアントニウスの妻としますが、アントニウスはクレオパトラと出会った後、形だけの結婚で彼女には見向きもしません。
当然の成り行きとして、オクタヴィアヌスとアントニウスは決裂です。
紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合軍はオクタヴィアヌスに敗れて二人は自ら命を絶ちました。
有名な伝説ではクレオパトラは、毒蛇に乳房を咬ませて自殺したと伝えられています。
この結果、エジプトはローマの属州となり、オクタヴィアヌスはローマ随一の実力者として政権を掌握し、紀元前27年、彼は事実上の帝政を開始しました。
此処で「事実上」と云う単語を敢えて使用した訳は、名目上は帝政ではない、と云う意味でオクタヴィアヌスは「事実上」皇帝に成りました。
振り返って史実を遡れば皇帝即位の、僅か20年前、彼の養父カエサルは皇帝に成ろうとして暗殺されました。
ではオクタヴィアヌスは、何の抵抗も無く皇帝に即位出来たのでしょう?
カエサル死後の混乱から、元老院貴族達も苦渋を舐め、巨大な領土を持つこのローマ帝国を平和に維持する為には、旧態然とした元老院を中心とする合議制では限界にきている事を知ったのでしょう。カエサルが試みた事の正しさを理解したのだと思います。
一方、オクタヴィアヌスもカエサルと同じ道を歩まない様に、元老院を尊重し共和政を守る姿勢をとり続けます。
彼しか政権を担当できる者が居ない、ということは彼しか兵士に給料を払えないと同義語なのですが、何度も政権を元老院に返上する儀式を繰り返したりしました。
一方元老院も、オクタヴィアヌスを引き立てる役に回り、この様な儀式が繰り返されました。
元老院は彼に「尊厳なる者」を意味する、アウグストゥスの称号を捧げました。
これに対してオクタヴィアヌスは謙遜して、「私はただのプリンケプスです」、と云います。
これは「第一の市民」という意味で、序列一位のローマ市民にすぎませんということなのです。
事実上の帝政が、行われた訳ですが、オクタヴィアヌスが崩御した時の正式の肩書き以下の通りです。
「最高司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神祇官長(ポンティフェクス・マクシムス)・統領13回・最高司令官の歓呼20回・護民官職権行使37年目・国父(パテル・パトリアエ)」
皇帝という言葉が在りませんが、皇帝という称号も地位もそれ迄存在しなかった、言い換えれば言葉自体が存在しないのです。
この後、カエサルという言葉が皇帝という意味で使われるようになりました。
ドイツ語のカイゼル、ロシア語のツァーリ、両方皇帝という意味ですが語源はカエサルです。
ローマ・続く・・・

アントニウスとクレオパトラの出会い
◎帝政の開始そのⅡ
東方に赴いたアントニウスが、出会った人物がクレオパトラで、当時アントニウスは40歳、クレオパトラは28歳。
クレオパトラは贅の限りを尽くして、アントニウスを歓待し、彼の心を虜にしてしまい、暗殺されたカエサルに代わる、ローマの実力者を後ろ盾にしたのでした。
クレオパトラにとってこの行動は政治的打算と思われますが、実際にこの二人はかなり強い精神的な結びつきも存在する様です。
後に、正式に二人は結婚し、クレオパトラは彼の子を三人授かり、アントニウスはローマ領の一部をクレオパトラに譲っています。
アントニウスは独断で、領土割譲を行いましたから、当然ながらローマ政界での評判はどんどん悪く成ります。
オクタヴィアヌスは政略結婚で自分の姉をアントニウスの妻としますが、アントニウスはクレオパトラと出会った後、形だけの結婚で彼女には見向きもしません。
当然の成り行きとして、オクタヴィアヌスとアントニウスは決裂です。
紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合軍はオクタヴィアヌスに敗れて二人は自ら命を絶ちました。
有名な伝説ではクレオパトラは、毒蛇に乳房を咬ませて自殺したと伝えられています。
この結果、エジプトはローマの属州となり、オクタヴィアヌスはローマ随一の実力者として政権を掌握し、紀元前27年、彼は事実上の帝政を開始しました。
此処で「事実上」と云う単語を敢えて使用した訳は、名目上は帝政ではない、と云う意味でオクタヴィアヌスは「事実上」皇帝に成りました。
振り返って史実を遡れば皇帝即位の、僅か20年前、彼の養父カエサルは皇帝に成ろうとして暗殺されました。
ではオクタヴィアヌスは、何の抵抗も無く皇帝に即位出来たのでしょう?
カエサル死後の混乱から、元老院貴族達も苦渋を舐め、巨大な領土を持つこのローマ帝国を平和に維持する為には、旧態然とした元老院を中心とする合議制では限界にきている事を知ったのでしょう。カエサルが試みた事の正しさを理解したのだと思います。
一方、オクタヴィアヌスもカエサルと同じ道を歩まない様に、元老院を尊重し共和政を守る姿勢をとり続けます。
彼しか政権を担当できる者が居ない、ということは彼しか兵士に給料を払えないと同義語なのですが、何度も政権を元老院に返上する儀式を繰り返したりしました。
一方元老院も、オクタヴィアヌスを引き立てる役に回り、この様な儀式が繰り返されました。
元老院は彼に「尊厳なる者」を意味する、アウグストゥスの称号を捧げました。
これに対してオクタヴィアヌスは謙遜して、「私はただのプリンケプスです」、と云います。
これは「第一の市民」という意味で、序列一位のローマ市民にすぎませんということなのです。
事実上の帝政が、行われた訳ですが、オクタヴィアヌスが崩御した時の正式の肩書き以下の通りです。
「最高司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神祇官長(ポンティフェクス・マクシムス)・統領13回・最高司令官の歓呼20回・護民官職権行使37年目・国父(パテル・パトリアエ)」
皇帝という言葉が在りませんが、皇帝という称号も地位もそれ迄存在しなかった、言い換えれば言葉自体が存在しないのです。
この後、カエサルという言葉が皇帝という意味で使われるようになりました。
ドイツ語のカイゼル、ロシア語のツァーリ、両方皇帝という意味ですが語源はカエサルです。
ローマ・続く・・・
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