2013/03/14

歴史のお話その62:ローマ帝國の発展⑭

<ローマⅩⅣ>

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ローマの火災を見つめるネロ アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)1887年作

◎帝政の開始そのⅣ

 ネロは暴君として、戯曲や書物、映画として有名ですが、即位する迄は、極々普通の男子だったと思われます。
即位した年齢は17歳、日本で云えば生意気盛りの高校生ですね。
若い頃は、有名な哲学者セネカや優秀な親衛隊長の補佐を受けて評判も良かったのですが、成長するに従い我侭な性格が現れて来ました。
最初は口うるさい母親を殺害し、離婚した妻に世間の同情が集まると彼女も殺害。
更には、補佐役のセネカ達も追い払われ、身勝手本位の人物に成ってしまいました。

 盛んに詩を作ってコンクールに出場し、競馬やオリンピックにも出場するのですが、カリグラの処でも述べた通り、ローマ皇帝の権限は極めて強力ですから、他の出場者は皇帝に勝つ訳にはいかないので、結局ネロは必ず優勝するのですが、自分のことを天才だと思いこんでしまう、他愛ない人物です。
彼も最後には、地方総督が反乱を起こし親衛隊に見捨てられて自殺するのですが、最後の言葉は、「おお、私の死によって、何と惜しい芸術家がこの世から消えてしまう事よ」でした。
皇帝の地位を離れても、自分自身に価値があることを信じていたのでしょう。

※ネロは果たして暴君だったのか

 「皇帝ネロ」(在位西暦54年~同65年)の名前を聞くと、反射的に「暴君」と言う言葉を連想する程、彼は、残虐非道な皇帝として後世に伝わりました。
彼は、自分の意に沿わぬ者の命を次々に奪っていったと伝えられています。
その非業の死を遂げた者の中には、彼の実母アグリッピナや妃のオクタヴィア迄含まれています。

 しかし、彼の時代には、この様な行為が日常茶飯事であり、今日では想像できない時代で在った事、当然ながら宮廷には、毒殺専門の調剤師が存在し、貴人達の殆どは、食事には必ず毒味役の奴隷を伴い、彼等が試した物以外、絶対に口をつけないしきたりに成っている程でした。

 ネロの実母アグリッピナは権力狂で、息子のネロが生まれる時、「この子は皇帝に就けるが、母を殺す」と予言されたものの、彼女は、「皇帝に成るのなら、自分の命を捧げる」と言ったと伝えられ、息子を皇帝にする為、皇帝クラウディウスと再婚し、ネロを養子としました。
その後、アグリッピナは、クラウディウスを毒殺し、彼の娘オクタヴィアをネロの妃としたのです。

 こうして、彼女の苦心の結果、皇帝の座に就いたネロでしたが、時を経て彼女の自由に成ら無くなって来ると、他の者を皇帝にする為、陰謀を企みます。
従って、実母アグリッピナの殺害に関しては、むしろ、ネロに同情する人々も多かったのでした。

 しかし、彼の狂気じみた振舞いが、次第に激しさを増し、ガリアに反乱が起こり、元老院や皇帝近衛兵も彼を見放す結果となりました。
ネロは、ローマから逃れ、最後に自殺して果てるのですが、彼を「暴君」と呼ぶ様に成ったのは、実は更に後世の事でした。

 ローマは、ローマ帝国の時代、度々大きな火事が起こり、消防隊もアウグトウス帝の時代に創設されていましたが、西暦64年7月19日、それまでの記録にも無い大火が発生しました。
大競技場から出火した火は、瞬く間に市中に広がり、火災が余りにも激しかった為、人々は逃げる事がやっとの状況でした。
ネロは、アンティウムに滞在して居ましたが、急ぎローマに戻り宮殿も焼失していましたが、焼け残った公共建造物や公園、宮廷庭園を民衆に開放し、近在の町から食料、物資を運ばせました。

 ところが、「ネロは都が燃え上がる様を宮殿のバルコニーから見物し、ホメロスを気取り竪琴を奏で、“トロイ落城”を詠っていた」との噂が、人々の間に広まりました。
ネロは、従来から芸術家を気取り、ナポリでも舞台に立ち、詩を吟じた事もありました。
其れは、ローマの大火の少し前の事で、彼が詠い始めると、まもなく地震が起こり、彼を心配して舞台に駆け上ろうとした者も在りましたが、彼は平然と詩を詠い続け、終わった時の拍手は鳴り止まなかったと記録されていますが、それは、彼の詠いが上手かったのではなく、彼の勇気を賞賛したのだと云われています。

 ローマが焼けてしまった事を良い機会として、ネロは、ローマ市の再建計画を立て、建造物の不燃化を図り、又宮殿用地を拡大しようと考えました。
その為、「ネロは、自分の名前を付けた新しい都を造ろうとして、ローマに火を放ったのだ」との噂が広まり、更には、その大火の折、小役人が混乱を利用して、民家に踏み込み、泥棒を働いた上「お上の命令でやっているのだ」等と言いながら、彼等は証拠を隠す為、まだ火の回っていない家に松明を投げ込んだりもしたのでした。
この様な事から、「ネロが火をつけさせたのだ」と云う噂が人々の間に信じられる事に成ったと思われます。
 
 歴史家タキトウスは、ネロ時代の歴史を著し、ネロが、本当に放火を命じたか否かについては、彼自身判らないとしていますが、多分、彼の命令では無かったでしょう。
ネロは、被災者の為に、物資を援助し、神殿での御祓い等の儀式を執り行いましたが、「疚しさから、あの様な事をするのだろう」と益々、噂は人々に信じられる様になりました。

 自分に向けられた悪評を逸らす為、ネロは「キリスト教徒がローマに火を放った」と言いふらし、キリスト教徒を捕らえて処刑したのですが、この時、伝道者パウロも処刑されました。
キリスト教徒を迫害したのも、彼だけでは無く、その後益々、激しさを増していくのですが、コンスタチヌス帝の時、キリスト教は、ローマ帝国の国教と成り、やがてヨーロッパ全土広がって行きます。
キリスト教徒を始めて迫害したネロは、彼等によって、極悪人とされ、やがて「暴君」と呼ばれる様に成ったのです。

ローマ・続く・・・
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