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2013/03/15

歴史のお話その63:ローマ帝國の発展⑮

<ローマⅩⅤ>

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「マルクス・アウレリウスの死」ウージェーヌ・ドラクロワ (1798-1863)

2、五賢帝時代

 ネロの死でオクタヴィアヌス、ティベリウスの血統を継承した、ユリウス=クラウディウス家は断絶しました。
短い内乱の後、フラウィウス朝が成立しますが、これも最後の皇帝が暗殺されて断絶し、その後始まるのが五賢帝時代(紀元96年~180年)です。

 フラヴィウス朝が途絶えた後、帝位を継ぐ者が存在せず、元老院で協議を行い、自分達の中から皇帝を選ぶことにしました。
一番温厚で良識ある人物が皇帝に選ばれたのです。

 最初がネルヴァ(在位96年~98年)で、即位した時66歳なので、暴走する恐れは殆ど在りません。
ネルヴァ帝は財政難と政治的混乱を収拾して黄金時代の基礎を作ったのですが、子供が居らず、そこで養子を迎えて帝位を譲る事としました。

 元老院議員の中から優秀で人望が在り、良識的で軍隊からも支持される人物を養子にしました。
この人物が2人目のトラヤヌス帝(在位98年~117年)です。
彼の時代にローマ帝国の版図は最大と成り、トラヤヌス凱旋門が現在も残っています。
ローマでは将軍や皇帝が、戦争で大勝利を収めて帰還する場合に、凱旋式という盛大な儀式行い、その時に帰還した指揮官が潜る施設がこの凱旋門です。(映画「ベン・ハー」で壮大な凱旋式の模様が再現されていました。)
パリの凱旋門はナポレオン時代にこれを真似たものです。

 トラヤヌス帝にも子供が居なかったので、再度元老院議員から養子です。
この人物が3人目にあたるハドリアヌス帝(在位117年~138年)。
ハドリアヌスも何故か子供が居らず、再度養子です。

 4人目がアントニヌス=ピウス帝(在位138年~161年)、彼の後継者もまた養子です。

 5人目がマルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161年~180年)。
この人物は皇帝としても優秀ですが、更に哲学者として有名。
哲人皇帝と呼ばれ、「自省録」という本を書いています。
彼は辺境地帯の戦場で生活しながら、夜は自分の天幕でロウソクの明かりを頼りに哲学書を著したのです。

 彼は立派な人物でしたが一つトラヤヌス帝以後の皇帝と違いが在りました。
本当は違いと云うべきものでは無いのですが、彼には子供が居たのです。
ここまで優秀な皇帝が続いたのは、養子で優秀な人物に後を継がせた結果でしたが、実子が居ればその子を跡継ぎにしたいと思うのは哲人皇帝でも同じです。
この時点で、五人続いた優秀な皇帝の系譜は途絶え、五賢帝時代は終わります。

 五賢帝時代はローマ帝国の最盛期とされ、パックス=ロマーナ、「ローマの平和」と言われる時代です。

 此処まで読まれた方は、五人の皇帝中最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス以外は皆子供が無かった事はどの様に考えられますか?
これは偶然では無く、当時のローマ全体で全般的に出生率が低下しているのです。

 五賢帝以後の皇帝については、一人だけ紹介します。
カラカラ帝(在位188年~217年)は、212年、ローマ領内の全自由民にローマ市民権を与えました。相続税を支払うのはローマ市民だけなので、ローマ市民を増やす事で増収計画を行ったものと考えられています。
理由は別にしても、この結果ローマ人と属州人との区別は消滅し名目上残っていた、都市国家的な形式が消え、ローマは普通の領域国家に変わり、それに応じて支配形式も変わって行くのです。

ローマ・続く・・・
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