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2013/03/18

歴史のお話その65:ローマ帝國の発展⑰

<ローマⅩⅦ>

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コンスタンティヌスの洗礼

◎ローマ帝国の変質

2、コンスタンティヌス帝

 ディオクレティアヌス帝が崩御した後、正帝副帝の間で権力闘争が起こります。
その権力闘争に勝ち残ったのがコンスタンティヌス帝(在位306年~337年)。
コンスタンティヌス帝は、3つの重要な行動を起こしました。

1)都をビザンティウムに遷都、この街をコンスタンティノープルと命名します。

 ビザンティウムは現在のイスタンブールで、その起源はギリシア人が造った古い町であり、アジアとヨーロッパの中継貿易の重要な町でした。
都を移した最大の理由は、ローマ市を中心とする帝国の西部よりも、ギリシア、シリアを中心とする東部の方が文化的にも経済的にも重要に成ってきたからです。
ローマ市が都では在りませんが、ローマ帝国の名前は変わりません。

2)313年、「ミラノ勅令」を発布し、キリスト教を公認しました。
勅令は皇帝の命令を意味します。

 ディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害命令から僅か10年しか経っていませんが、180度方向転換した命令が出た事に成ります。
なぜ、180度政策が変更になったのでしょう?
まず、弾圧によっても、全然キリスト教徒は減らなかったばかりか、逆に、爆発的に信者が増加したものと思われます。

 コンスタンティヌス帝は弾圧するよりも、公認してキリスト教徒を自分の味方に取り込んだ方が支配に有利だと考えたのでしょう。
この様な伝承も伝わっています。
「皇帝の座を得る以前に、正副皇帝間での抗争が在ったのですが、その戦いの前夜に夢を見た。
夢の中で光り輝く十字架が現れ、そこで、コンスタンティヌスは十字をかたどった軍旗を作り、ライバルとの決戦に勝った」、と云うお話です。
もちろん後付の作り話ですが、この様な話を捏造してまでも、キリスト教徒を自分の支持者に加え様と考えたのでしょう。

3)コロナトゥス制が確立。

 コロナトゥス制は小作人を使用した農場経営で、小作人の事をコロヌスと呼びます。
3世紀以降奴隷が減少し、大土地所有者である貴族から見れば労働力不足です。
労働力不足を補うには、奴隷を結婚させて子供を作らせれば良いのですが、奴隷も人間ですから、家畜の種付けでは在りません。

 奴隷にも家や財産を持つ事を認めてはじめて、彼らも自分の生活設計が可能になり子供も作る気になります。
そこで、農業経営者達は奴隷の身分を格上げして、家庭を持たせて子供を作らせて労働力を確保しようとしました。
これがコロヌスと呼ばれる小作人です。

 しかしながら、奴隷ではないからといって勝手に別の農場に移られてしまっては、労働力確保に結びつきませんから、コロヌスの移動を禁止する必要があります。
その為、コンスタンティヌス帝はコロヌスの移動禁止令を発布し、身分を固定化しました。
これを、コロナトゥス制の確立といっています。
尚、奴隷から身分上昇した一方で、一般農民からコロヌスに転落した者も存在しました。

3、テオドシウス帝

 テオドシウス帝(在位379年~395年)。
ここで、ローマ帝国は一応の区切りがつきます。

 テオドシウス帝は380年にキリスト教を国教化します。
国教化は国の宗教にした意味で、ローマ国民はキリスト教を信仰しなければ成りません。
ミラノ勅令は公認で、公認とは信じても良いと云う意味なので、国教化したと云う事は、キリスト教を国家支配の柱の一部に組み込んだ事に成ります。

 更に、392年にはキリスト教以外の宗教の信仰を禁止します。
ギリシアの時代から続く古代オリンピックはこの時まで、連綿とおこなわれていましたが、オリンピックは、本来ギリシアの神々に捧げるお祭りですから、キリスト教国教化以後開かれなくなりました。

 さて、テオドシウス帝は死に臨み、2人の息子に帝国を分割して相続させました。
兄のアルカディウスが東ローマ帝国(首都コンスタンティノープル)、弟のホノリウスが、西ローマ帝国(首都ローマ)を継承しました。
此れで地中海全体を取り囲んだ大ローマ帝国は終焉を迎える事と成ります。

ローマ・続く・・・
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