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2013/03/22

歴史のお話その69:ローマ帝國の発展㉑

<ローマ帝國に翻弄された隊商都市④>

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◎栄華の終焉

 太陽が昇ると3km程先にシュロの並木が見えました。
川の土手に沿って植えられたものです。
目的地は目前ですが、その直ぐ後方200mにはローマ軍の追撃部隊が、急速に近づいて着ます。
もはや一刻の猶予も無く、ゼノビアは全力を振り絞り、疲れきった駱駝に鞭を入れました。
既に追撃部隊の声が近づき、此処で捕らわれては万事休す、何が何でも川迄、行き付かなければ成りません。
ユーフラテス川の岸に着くや否や、駱駝を飛び降り、岸に下りて小船を捜し求めます。
見れば岸から少し離れた場所に、漁夫を乗せた小舟が一艘浮かんでいます。
ゼノビアは在らんばかりの声で、自分たちを乗せてくれる様に頼み、漁夫は舟を巡らし大急ぎで彼女の処に急ぎました。

 ローマ軍追撃隊と漁夫の競争に成りましたが、残念な事にローマ軍の方に軍配が上がってしまいます。
小舟が岸に着いた時、追撃隊の兵士達は土手を乗り越えて岸に下り、ゼノビアの従者を倒すと彼女を捕らえたのでした。
小舟があと1分早く岸に着いていたら、彼女は逃れその後の歴史も変わっていたかも知れません。
パルミユラに篭城し、飢餓に苦しみ、援軍の到着を一日千秋の思いで待ち望んでいた人々も、ゼノビアがローマ軍に捕らえられた事を知ると、総ての希望を失い、城門を開いてローマの軍門に降ったのでした。
アルレリアヌス将軍は、優れた政治家でも在った為、パルミュラの市民には慈悲を足れ、ゼノビアを捕える事で、一般市民を罰する必要は無いと考え、降伏した市民を許し、僅かな守備兵を残すとゼノビアを連れてローマに凱旋しました。

 しかし、彼等がローマへ船団を出航させようとしていた時、パルミュラで市民蜂起が起こり、ローマ軍守備隊を殲滅させる事件が発生してしまいます。
将軍は踵を返してパルミュラを攻略し、火と剣で反乱を鎮圧し、砂漠の中に光り輝いたパルミュラに終末が訪れたのでした。

 ローマ帝国に捕えられた、ゼノビアの最後については、諸説が存在します。
一説には、彼女はパルミュラがローマ軍に蹂躙された事を知ると、30日間の間、食を断ち絶命したと云い、別の話では、アウレリアヌス将軍が、凱旋した時、彼女を捕虜として連れ帰り、将軍が市内を凱旋行進する時、宝石で飾られた彼女を黄金の鎖で戦車の後ろに繋ぎ、市中を引き回したとも云われています。
その後のゼノビアについても二つの伝承が存在し、第一は、彼女は砂漠の故郷と消え去った栄華を偲びながら、寂しく、捕囚の内に死んで行ったと云うもの。
第二は、更に散文的で、後に彼女は許され自由人と成り、アウリアヌスはティベル河畔に邸宅を与え、静かな晩年を送ったと云うものですが、最近の研究では、第二説が正しいとの見解が発表されています。   

 現在のパルミュラは、シリアを通過する国営イラク石油会社のパイプラインが、地中海に向けて3本敷設されていますが、その1本はシリア砂漠の中央をパルミュラ、ホムスと進み、バニヤス港に抜けています。 
パルミュラの廃墟は、東西1.5kmに及び、かつて栄華を誇った頃、街の主要道路は、巨大な円柱が1500本以上立ち並んでおり、ローマ侵攻時その多くは倒壊してしまいましたが、それでも尚若干の円柱が現在でも往時を偲ばせています。
ゼノビアの建立した、ヴェール神殿には370本の円柱が用いられ、その栄華を誇りましたが、今日でもその数本が現存し、当時の面影を留めています。
巨大な建造物の装飾や形態は、ローマの影響よりもむしろエジプトの其れの名残を留めています。

 第二次世界大戦以前、シリアにはフランスの委任統治領として、外人部隊が駐留していました。
パルミュラ近郊に駐留した部隊の兵士に因れば、シリア人は日が暮れると決して廃墟に近づく事は有りませんでした。
幾世紀にも渡って、夜が更けると、女王ゼノビアの亡霊が一つコブの駱駝に跨り、大路を闊歩し、彼女は黄金の兜を冠り、腕も顕にマントを風に靡かせながら、道行く人々の黒い瞳を注ぎ、槍を取って彼女に従い、城壁を取り囲むローマ軍を打ち破る手助けをしてくれる様、懇願している様に思えてならず、シリア人はその恐ろしさ故に、夜間、廃墟に近づく事はしないと云う事なのです。

ローマ・続く・・・

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