2013/04/04

歴史のお話その80:ローマ帝国以後のヨーロッパ④

<西ヨーロッパ世界の形成④>

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ピピンの寄進

◎フランク王国の発展

 フランク族は、更に小さな支族集団に分かれていました。
移動後、小集団がそれぞれ小さな国を形成するのですが、この小国家を統一してフランク王国を建てたのがメロヴィング家のクローヴィス(在位481年~511年)で、これをメロヴィング朝と呼びます。
これがフランク王国発展の基礎と成るのですが、その秘訣は宗教なのです。

 ゲルマン人はキリスト教を信じているのですが、宗派はアリウス派です。
これは、325年のニケーア公会議で異端とされた宗派で、ローマ帝国内で布教できない為、ゲルマン人に信者を広げていたのです。
ローマ人は、同じキリスト教でもアタナシウス派、つまりローマ教会の信者です。

 クローヴィスも他のゲルマン人と同じでアリウス派だったのですが、アタナシウス派に改宗します。
ローマ人にとってローマ帝国が無くなった後、頼りになったのはローマの行政区ごとに作られた教会でした。
元老院議員を輩出する様な有力な家柄の者が、教会の聖職者としてローマ人の指導者的立場に在ったのです。
フランクの王がその同じ教会の信者になることは、ローマ人にとっては喜ばしいことでした。
この王様と一体観が生まれ、ガリア地方、今のフランスに相当する地域ですが、のローマ人達はクローヴィスを支持しました。
又、教会はローマ帝国時代から引き継いでいる、行政上のいろいろな算段、学問、技術をもっているので、フランク王国はこれらのものを手に入れることも出来ました。
この様な理由で、フランク王国は他のゲルマン国家と違い安定して発展することができたのです。

 フランク族は分割相続の習慣が在り、王国はクローヴィスの息子たちにわけられて、それぞれで内紛や貴族の権力闘争で王たちは次第に力を失っていきました。
代わりに、フランク族のまとめ役になった人物が宮宰(きゅうさい)、総理大臣に相当する行政の最高職です。

 この宮宰職について強大な権力を握ったのがカロリング家のカール=マルテル。
彼は、全分国の宮宰となってフランク王国の実権を掌握し、彼を有名にした歴史的事件が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いです。
ピレネー山脈を越えて進撃してきたイスラム軍を撃退したのですが、実際に戦いの様子が如何なる状況なのか、現在情報不足でよく判っていません。
とにかくこの戦い以後、イスラム軍の進撃が止まり、結果として、カール=マルテルは名声を確立したのです。

 その息子がピピン3世、宮宰職を継承しますが、彼は父親が残した実績と名声を引き継ぎ、メロヴィング家の王を追い、751年に王位につきました。
これ位後がカロリング朝の始まりです。

 ピピン3世が即位するに際して、ローマ教皇が彼の王位を認めました。
宗教的権威をもって認めるので、教会の信者にとっては正統性を持つことに成ります。
ピピン3世は、代わりにランゴバルド王国の領土を奪って教皇に寄進し、これを「ピピンの寄進」と呼び、教皇領のはじまりです。
これ以後ローマ教会は信者から領地を寄進されて大きな教皇領を持つようになると同時に、フランク王国とローマ教会は一層緊密な関係になります。

西ヨーロッパ世界の形成・続く・・・


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