2013/04/05

歴史のお話その81:ローマ帝国以後のヨーロッパ⑤

<西ヨーロッパ世界の形成⑤>

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モンスニー峠を越えるカール大帝

◎カトリック教会と西欧のキリスト教化

 ローマ教会は、コンスタンティノープル教会やその他の教会と同様に、ローマ帝国内で発展してきましたが、西ローマ帝国滅亡によって国家の保護が消滅するも、東ローマ帝国との連絡は存続しており、皇帝の指導下に在りました。
ユスティニアヌス帝が東ゴート族からイタリアを奪還した時には、ローマ教皇はローマ地域の行政長官に任命されていて、ランゴバルド族の侵入で東ローマ帝国が撤退した後も、ローマ周辺の統治権を握っていましたから、或る意味では単なる宗教指導者ではなかったわけです。

 その為、ビザンツ皇帝の皇帝教皇主義には反対し、ローマ教会の独立性を主張する為にも、ランゴバルド王国の北方で勢力を拡大しつつあったフランク王国と協力関係を締結して、政治上の庇護者にしようとしたのです。

 726年、ビザンツ皇帝レオン3世による聖像崇拝禁止令は、ローマ教会とビザンツ帝国の対立を産み、東のコンスタンティノープル教会とローマ教会はその後分裂して発展していきます。
コンスタンティノープル教会がギリシア正教会に、ローマ教会がローマ=カトリック教会として別々の宗派に成って行きました。

◎カール大帝

 ピピン3世の子がカール大帝(在位795年~813年)の時代にフランク王国は大発展して、西ヨーロッパ全域を統一しました。
領土の大きさではビザンツ帝国に匹敵する大王国です。

 このカール大帝にローマ教皇がローマ皇帝の冠を授けたのが800年。
この時のローマ教皇がレオ3世、フランク王をローマ帝国皇帝と名乗らせることによって、西ヨーロッパはビザンツ帝国と対等とローマ教会は主張したかったのです。
この事件を「カールの戴冠」と云います。

 カール大帝がローマ人の血を引いているわけでも、フランク王国の国都がローマにあるわけでもないのですが、文明世界の代表、偉大なローマ帝国の理念が西ヨーロッパに復活したという意味で、大きな事件で、フランク王国自体も大きな権威を持つように成りました。

※カール大帝の政策

 広い領土を支配するために各地に伯という長官を配置し、さらに伯の地方行政を監査するため巡察使を派遣しました。
又積極的にキリスト教会を新たに領土になった地域に建設していきます。

 ローマ教会に属する修道院が各地に存在しますが、ローマ帝国が滅んだ後、修道院は多くの書物や学問文化が伝えられているほとんど唯一の場所でした。
当然修道士は知識人で、カール大帝はいわゆる学者でもある修道士を宮廷に集めて学芸を奨励しました。
これを「カロリング・ルネサンス」と呼びます。

※経済

 この時代のフランク王国の経済は、自給自足の農業経済で、生産性は低く小麦は播いた分の4倍程度しか収穫できません。
穀物だけでは食糧不足の為、豚等の家畜も必ず多数飼っており牧畜中心の農業です。

 古代ローマ時代のような地中海を中心とする遠隔地交易は、当時殆ど消滅しており、フランク王国内でも商業は沈滞しています。
流通も未発達、カール大帝の宮廷は一カ所に留まらずに常に国内を移動しています。
その訳は、各地から食糧等の生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段が存在せず、ある地方の資源を消費し尽くすと、宮廷は次の場所に移動してそこにあるものを食べ、食べ尽くすとまた移動するのです。

 領域の広さや戦争の強さではビザンツ帝国と対等かもしれませんが、フランク王国は経済的には完全に辺境です。

西ヨーロッパ世界の形成・続く・・・

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