2013/04/06

歴史のお話その82:ローマ帝国以後のヨーロッパ⑥

<西ヨーロッパ世界の形成⑥>

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パリ伯ユーグ=カペー

◎フランク王国の分裂

 カール大帝の死後、フランク王国はその子孫たちのあいだで分割相続されます。
843年のヴェルダン条約で、フランク王国は西フランク、中部フランク、東フランクに三分割され、その後870年のメルセン条約で中部フランクの一部が西と東のフランク王国に分割されました。
三つのフランク王国について簡単にその後を追ってみます。

 中部フランク王国は現在のイタリアになります。
ここでは、早くにカロリング家が断絶し国家的な統一は消滅し、北部には諸侯や都市が自立化して分裂割拠状態、それに乗じて東フランクが支配権を及ぼすようになります。
中部にはローマ教皇領があり、その南のイタリア半島南部とシチリア島はイスラム勢力により占領されます。

 東フランク王国は現在のドイツに相当します。
ここでも10世紀初頭にカロリング家が途絶えて、有力諸侯が王位に就きますが、この王位は有力諸侯が選挙で選ぶのです。
10世紀には東方から遊牧系のマジャール人が盛んに東フランク領内に侵入し、これを撃退したのがオットー1世(在位936年~973年)で、西ヨーロッパ世界を防衛した功労者としてローマ教皇はオットー1世にローマ皇帝の冠を授けました。
これ以後ドイツは別名神聖ローマ帝国と呼ばれることと成りました。
 
 これ以後の歴代のドイツ王は神聖ローマ皇帝をも名乗る様に成ります。
ローマ皇帝の名前を有しておれば、イタリア半島の支配も目論む様に成り、歴代ドイツ王はイタリア半島に軍隊を派遣して、ここを支配下に置こうとします。
ローマ教皇もイタリアで有利な立場を築く為に、ドイツ王の軍事力を利用したりもしたのです。

 西フランク王国は現在のフランスに成って行きます。
ここでも10世紀後半にカロリング家が断絶しますが、既に9世紀後半からノルマン人がフランスに侵入して略奪を繰り返し、この時にパリ防衛で活躍した諸侯、パリ伯ユーグ=カペーがフランス王に成り、カペー朝の始祖に成りました。
 この王家も選挙で選ばれたもので、実際にカペー家が支配していたのはパリ周辺の地域だけです。ほかの地方は有力諸侯たちの支配下に在ったままでした。

 フランク王国分裂以後はイタリア、ドイツ、フランスの原型が形成されますが、それぞれの国では諸侯の力が強く、イタリアでは王すら不在、フランス、ドイツでは王は在位していても、有力諸侯の中から選挙で選ばれるのであって、カール大帝時代の様に大きな力は持っていません。
ヨーロッパ全体が大小さまざまな諸侯のもとで分裂し、中世、典型的な封建時代の始まりなのです。

西ヨーロッパ世界の形成・終わり

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コメント

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こんばんは

諸侯による欧州分割。
今のEU統合を考えると、この時代の課題は今に残されているということなのでしょう。