2013/04/09

歴史のお話その84:ローマ帝国以後のヨーロッパ⑧

<東ヨーロッパ世界の形成②>

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コンスタンティノープル

◎ビザンツ帝国の盛衰その2

 宗教は、皇帝教皇主義、皇帝がキリスト教会のトップの地位にあることを意味しています。
ビザンツ帝国は常にイスラム勢力と境を接して争っている為、宗教面でも対抗心が旺盛でした。
イスラムとの関係で8世紀の皇帝レオン3世が発布した法令が「聖像崇拝禁止令」と呼ばれ、イエスやマリアの像を拝むことを禁止する法令なのですが、それまでは日常的に聖像崇拝がおこなわれていた為、イスラム教の偶像崇拝禁止を厳格に定めていることに触発されて、行われたものですが偶像も聖像も中身は同様なのです。
キリスト教もイスラム教も同じ神を信じていますから、厳格なイスラムに比べキリスト教の堕落を心配しての結果なのでしょう。

 ところが、この聖像崇拝禁止令がローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立を生んだのです。
ローマ帝国時代に各地に五本山と呼ばれる大きな教会が形成されますが、ローマ教会もコンスタンティノープル教会もそのうちの二つです。
どちらが上位と事ではないのですが、以前から二つの教会は高い権威をもって競い合っていました。

 ローマ教会は西ローマ帝国が滅んだ後は、ビザンツ帝国と協力関係にあるのですが、イタリア半島はビザンツ帝国の領土から外れていり為、実際にはビザンツ帝国に領土的な影響力は有りません。
そこで、ローマ教会は存続をかけてゲルマン人に布教活動を行い、教会の存続を図ったのです。
ローマ教会はゲルマン人に布教する時にイエスやマリアの像を使用しました。
当時のゲルマン人はまだまだ文明度は低いので、絵や聖人像を見せる事によって、何とかキリスト教を理解させたのかも知れません。

 この様な理由で、ローマ教会にとって聖像を使用できなくなる事は大問題でした。
そこでローマ教会はビザンツ皇帝の方針に反対をとなえますが、更にローマ教会は皇帝教皇主義にも不満持っていた為、ここで両教会の分裂は決定的に成りました。
やがて、ローマ教会はローマ=カトリック、コンスタンティノープル教会はギリシア正教と呼ばれるように成って行きます。

 聖像崇拝禁止令が出た直後の時期には、ビザンツ帝国では聖像は破壊されましたが、のちに復活します。
現在、ギリシア正教では聖像の事をイコンと云い、信仰上重要な意味づけがなされていて非常に大事にされ、今でも修道院等で盛んに作られています。
イコンの制作者はサインをせず、個性を押さえて描くのが基本だそうです。

東ヨーロッパ世界の形成・続く・・・

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