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2013/04/23

歴史のお話その96:キリスト教の成立⑩

<キリスト教の発展、分裂後の東西ローマ帝国③>

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アウグスティヌス

2、教義をめぐる対立、教父その2

 異端とされた宗派のその後ですが、ローマ帝国内では当然ながら布教はできません。
アリウス派は北方のゲルマン人に布教活動を行い、ネストリウス派はイランから中央アジアにかけて広がっていきました。
単性論派はエジプトやエチオピアに残ります。

 初期教会の指導者で、教義を整備した人達を教父といいます。
エウセビオス(260年~339年)は「教会史」を著して有名、アウグスティヌス(354年~430年)は「告白」「神の国」の著者で、アウグスティヌスは本来はマニ教を信仰していましたが、キリスト教に改宗しました。
その半生を書いたのが「告白」で、この人物は今日でもキリスト教徒の人たちには信奉者が多いようです。

3、西ローマ帝国の滅亡

 4世紀中頃のこと、フン族と呼ばれる遊牧民族が、東方から黒海北岸辺りに移動してきました。
時代は遡りますが紀元前2世紀中頃、ローマでグラックス兄弟が改革を試みていた頃、ユーラシア大陸の東端、中国では漢帝国が栄えていました。
武帝の時代で、この以前から中国北方の草原地帯では、匈奴と現在呼ばれている遊牧国家が存在し、中国を圧迫していましたが、武帝の時代になってはじめて北方遠征で匈奴に勝利をおさめます。
 
 匈奴は漢に敗走する形で西に移動を開始し、400年かけて移動したのです。
途中に出会った他の遊牧グループを合体乃至吸収しながら、移動を繰り返したと思われます。
この匈奴がフンという名で、ローマの歴史に登場するのです。
匈奴は「きょうど」と読んでいますが「フンヌ」「フンナ」とも読ことができ、匈奴とフン族は同じ種族だろうと云われています。

 ローマ帝国の北方から黒海北岸には、ゲルマン人が住んでいました。
彼らは部族単位で農耕牧畜をして生活していましたが、そこに東方からフン族が移動してきた結果、玉突き状態と成り、ゲルマン人は部族単位で次々に西へ移動を開始しました。
これが375年に始まる「ゲルマン民族の大移動」です。

 フン族に追われて移動するゲルマン人は、現代風に言えば難民です。
彼等は安住の地を求めて、ローマ帝国内に侵入を試み、以前からゲルマン人のなかにはローマ帝国内に移住して生活するグループや、ローマ軍の傭兵となる者なども結構いました。
強引にローマ帝国内に集団移住しようとするグループも存在して、ローマ皇帝は常に辺境で戦っています。
しかし、今度は規模が違い、大量のゲルマン難民が怒涛の如く流れ込んできたら、ローマ社会は大混乱になることは目に見えています。
東ローマ帝国はなんとか国境防衛に成功しゲルマン人が侵入をくい止めることができましたが、西ローマはこれに失敗したのです。
 
 次々になだれ込んでくるゲルマン人で西ローマ帝国は大混乱と成り、最後の西ローマ皇帝は親衛隊長のオドアケルに廃位されて滅亡しました(476年)。
オドアケルはゲルマン人出身です。

 ゲルマン人は部族単位で西ローマ帝国の領内に勝手に建国し、更にお互い戦いあいます。
例えばガリア地方北部に侵入したフランク族は、フランク王国を建国、現在のフランスの原型です。ローマ人達はこの新しい野蛮な支配者となんとか折り合いをつけて生活するしか無く、長引く混乱のなかでローマ時代の高い文明は崩壊し経済も停滞し、やがてローマ人はゲルマン人と混血していきます。
これが現在のイタリア、フランス、スペインあたりの状態でした。

 生き延びた東ローマはユスティニアヌス帝(在位527年~565年)の時代に一時期勢力を盛り返します。
ユスティニアヌス帝は、イタリア半島やアフリカ北岸に建国したゲルマン人国家から領土を奪い返して、東西分裂以前に近い領土を支配しました。
余談ながら、ユスティニアヌスはローマ法大全を編纂させていることでも有名で、彼の時代は古きローマ帝国の最後の輝きといえるでしょう。

 これ以後東ローマ帝国の領土はどんどん縮小し、名称も首都コンスタンティノープルの古名ビザンティウムからとったビザンツ帝国と言うのが一般的です。
この後もローマ帝国の理念はビザンツ帝国で生き続けますが、実質的な中身は違うものに変化していると考えた方が良く、平安時代と鎌倉時代では同じ日本でも政治の仕組みがまるで違う事と同様です。

キリスト教の発展・終わり・・・

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