2013/05/06

歴史のお話その107:インダス文明⑪

<インドの諸王朝(大乗仏教、ヒンドゥー教)>

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◎マウリヤ朝

 ガンジス川流域に生まれた幾つかの小王国の中から、強国が成長してくるのが紀元前5世紀頃、代表的な国がコーサラ国とマガタ国。

 紀元前4世紀末、初めて北インド全体を統一する王朝が登場します。
これがマウリヤ朝(紀元前317年~紀元前180年)、首都はパータリプトラ、建国者がチャンドラグプタ。
この人物はインド史では非常に大切な存在で、彼の存在がインドの年代確定の為のキーパーソンなおです。
 
 以前にも書きましたが、インド人は輪廻転生を信じている影響からか、歴史記録に殆ど関心がなく、国事に関わる問題や、統治者の生没年度、戦争、大きな事件が何時発生したかを余り熱心に書き留めておきません。
従って、インド史は時系列の配分が難しく、極端な喩えではブッダの生没年にしても諸説あることは前回も書きました。

 ところが、このチャンドラグプタは何時の年代の人物か明解なのです。
何故かというとギリシア人の記録に登場し、アレクサンドロス大王が東方遠征に出て、インドに侵入した時に彼を迎え撃ったのが、このチャンドラグプタなのです。
その為、何時の人物か明解に分かるので彼を基準として、インドの古代史は編まれています。
チャンドラグプタはインダス川流域からギリシア人勢力を駆逐し、その勢いでマガタ国に取って代わりマウリヤ朝を建国し、北インドを統一しました。
 
 マウリヤ朝の三代目の王が有名なアショーカ王(在位紀元前268年~紀元前232年頃)です。
彼はインド全土をほぼ統一、インド亜大陸の南端だけは領土に成らなかったのでほぼ統一と云います。
 
 アショーカ王は、仏教との深い関係でも有名です。
アショーカ王は南方のカリンガ王国を滅ぼした時数十万人を虐殺したのですが、その行為を後に後悔して仏教に帰依したと伝えられています。
政治も暴力ではなく、ダルマによる支配を行う様に成りました。
このダルマとは「法」と訳していますが法律ではなく、道徳的な徳目で、このダルマは仏教の教えに影響されているようです。

 アショーカ王はこのダルマを刻んだ石柱碑、磨崖碑(まがいひ・崖に刻んだ碑文)を各地に作りました。
この石柱碑が発見されるとアショーカ王時代にマウリヤ朝の領土であった事が確定するのです。
又、アショーカ王は第三回仏典結集を行いました。
結集は「けっじゅう」と読み、伝統的な読み癖です。
仏典結集とはブッダの教えが時と共に食い違っていかない様に、各地の仏僧が集まってそれぞれの集団が伝えているブッダの教えを確認し合う行為です。

 第一回仏典結集はブッダの死後すぐに行われ、第二回はそれから約100年後、そしてアショーカ王が主催したのが第三回です。
 
 興味深い事ですが、当時は未だブッダの教えを文字として記録しておらず、その為口伝えでブッダの教えが伝えられており、その教えを確認する為にやはり、その全文を誰かが暗唱するのです。
それを聞いて他の僧達が、「それで良い」と確認します。

 ブッダの教えが文字に記録されるのが1世紀位なので、口伝えの伝統はお経に残り、すべての仏典は「私はこう聞いた」と云う意味の言葉から始まっています。
日本に伝えられている大乗漢訳仏典も、ブッダの弟子が、「師の教えをこの様に聞きました」と確認している結集の口調がそのままなのです。
アショーカ王は、又南のセイロン島に王子を派遣して仏教を伝えさせたとも云われています。

 アショーカ王は仏教に因んだ話題が多いのですが、実際にはジャイナ教も保護しています。
バラモンの権威に反対する宗教を保護した結果でしょうか。

インダス文明・続く・・・

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