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2013/05/07

歴史のお話その108:インダス文明⑫

<インドの諸王朝(大乗仏教、ヒンドゥー教)②>

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聖地サルナート・ダメーク・ストゥーパ

◎クシャーナ朝

 マウリヤ朝はアショーカ王の死後、分裂が生じ、次に重要な王朝がクシャーナ朝(1世紀~3世紀)。この王朝はイラン系民族が支配者で、インドよりは現在のアフガニスタンに中心地があるのですが、インドの西北部も支配した、という国家で、首都はプルシャプラ。
 
 この国はやはり仏教との関連で重要です。
一番目はカニシュカ王(在位130年~170年頃)が、仏教を保護し第四回仏典結集を行いました。
二番目として、この王朝でガンダーラ美術と呼ばれる仏教美術が成立しました。
仏像の製作が始まったのですが、インド人には仏像を作る風習はなく、ブッダの生涯を描いた彫刻などがあってもブッダの部分だけは空白で表していました。
これはユダヤ教、キリスト教的な偶像崇拝禁止の意味ではなく、解脱してこの世界のものではなくなった事を空白で表現したのです。

 この仏教がクシャーナ朝でも信者が増え、クシャーナ朝の本拠地は中央アジアを含み、ここにはアレクサンドロス大王の遠征の際、残されたギリシア人達の子孫が居り、ギリシア文化は彫刻が得意な文化ですから、多分仏教信者になったギリシア系の人々がブッダをはじめて彫刻に刻んだと思われます。
それがガンダーラ美術と呼ばれるもので、その影響か仏様の顔も服も少々ギリシア風です。
三番目は、この国で大乗仏教が栄えました。
この大乗仏教とガンダーラ美術が中央アジアを通って中国、そして朝鮮半島、日本に伝えられることになるわけです。

◎大乗仏教について

 前にも説明した様にインドの宗教は出家して、修行しなければ解脱できません。
即ち救われないのですが、すべての人が日常生活を放棄して出家できる訳では無く、その人達は修行者にお布施をしたり徳の高いお坊さんの傍に居られることで満足していました。

 さて、そこでブッダが死んだ時の話です。
ブッダが死んだ時、修行を積んだ弟子達は、この世の無常であることを知っているから、じっと悲しみに耐えています。
入門暦の短い弟子達は、その部分に達していませんから、泣き声をあげます。
在家の信者達はどうかというと、彼等はブッダの高い徳を慕っていたわけなので当然嘆き悲しみます。出家した修行者達の様に冷静になる必要は全然ないので、亡きブッダに対して執着す、簡単に言うと少しでもブッダの傍に居たい、かれの亡骸を守りたいと思ったのです。
そこで在家信者達は、ブッダの遺骨を埋めてその上に塔を建てます。
この塔を「ストゥーパ」と呼びますが、ストゥーパにお参りしてはブッダを偲ぶような形で自分達の信仰を守りました。

 ブッダの信者はインド全域に居たので、信者のグループが居る処には次々にストゥーパが建てられましや。
その地下には分骨したブッダの遺骨の一部を埋葬しますが、このストゥーパは仏教の広がりとともにアジア各地に広がっていきます。
日本では、例えば有名な法隆寺の五重塔、この建造物はストゥーパが中国風に形を変えた物です。
従って、あの五重塔の下にもブッダの遺骨の一部が埋葬されている、事になっています。
日本全国あらゆるお寺の塔の下にはある、事になっているのです。

 世界中の仏塔はその数が正確に把握出来ない程に存在し、ブッダの遺骨はどんどん細かく分けられて小さくなっています。
このブッダの遺骨の事を仏舎利(ぶっしゃり)呼びます。
ところで、世界中の仏舎利を集めたら数十人分の人骨になるそうで、でもこれが信仰というものでしょう。
少しでもブッダの側に居たいという気持ちがそれだけ強かったのです。

インダス文明・続く・・・
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