2013/05/08

歴史のお話その109:インダス文明⑬

<インドの諸王朝(大乗仏教、ヒンドゥー教)③>

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涅槃図

大乗仏教について:その②

 ブッダを慕う気持ちが強ければ強いだけ、在家信者達はブッダが死んでしまっていることに耐えられなくなります。
その様な在家信者に共感する修行者や仏教理論家達が存在し、彼等の中から大乗仏教が生まれてきます。

 大乗仏教の特徴はまず、在家信者も悟りを得て解脱することができると教えます。
出家修行者だけではなく、在家の信者も悟りの世界つまり彼岸(ひがん)に載せていってくれる大きな乗り物、之が大乗です。
これに対して出家者しか悟ることのできない従来の仏教を大乗側は小さな乗り物、小乗仏教と言っています。
又大乗仏教は歴史上の実在したブッダ以外に、理念としてのブッダの存在を考え、ブッダの教えを法、ダルマと称し、そのダルマそのものがブッダである、と考えるのです。
「宇宙の法則の中に永遠のブッダが存在している」、そう考えれば寂しくは在りません。

 大乗は歴史上のブッダ自身の教えと違うと問題視した人物が昔も今も存在しますが、ただ一般的な理解としては、大乗も仏教なので、ブッダの教えが理論的に発展して行ったものと考えれば良いと思います。

 ブッダが悟りをひらいたときにいったんは誰にも理解できないから、法を説く事はやめようと思ったのですが、考え改めて布教活動を始めたと前回書きましたが、この辺が重要と思うのです。
「ブッダであれば、在家信者を見捨てる事も無い筈で、在家信者も悟りをひらけるまで教えを説き続けてくれる筈だ」、と云う考えが生まれます。

 「菩薩」が当にその存在で、大乗では「菩薩」を考えました。
「菩薩」は悟る力は在りますが、他の皆が悟りをひらける様に成る迄待っており、他の皆が悟りをひらけた時にはじめて「菩薩」も悟りをひらく、大変有り難い修行者です。
「菩薩」は現実に存在かもしれず、又理念的宇宙的な存在として存在する者でもあるのです。
「仏」に対する信仰と共に「菩薩」に対する信仰も生まれ、色々な「菩薩」が考え出されました。
この部分は理解より、信じれるか否かの問題とも思います。

 大乗仏教の理論を大成した人物がナーガルジュナ、龍樹(りゅうじゅ)と漢訳し、龍樹菩薩とも呼ばれています。
2世紀から3世紀にかけて生きていた南インドの人物です。
「依存関係による生起」例えば愛。
私と貴方が愛し合っていますが、愛は何処にあるか、私の中にあるのか、貴方の中にあるのか、結果は貴方と私の間に存在するのです。
愛とは関係なので、貴方だけでも私だけでも、そこには愛は存在しません。
二人が只居ても存在せず、二人の間に、関係の中に愛が在るのです。
之が「依存関係による生起」です。

 更に例えをあげれば、「川はどこに在るか?」、ここに在ると私達は思いますが、実は存在していません。
そこは水と、水が流れる大地のえぐれに過ぎません。
水とその運動と大地の関係が川であり、川は関係に過ぎません。
これも「依存関係による生起」の説明で、この様に関係を分解していくと実在する物が何も無くなってしまい、之を「空」と呼びます。
これも大乗仏教の重要概念で、「色即是空、空即是色」、般若心経の一説ですが、この「空」なのです。

 お経はブッダの言葉を弟子達が、伝え其れをまとめたモノなのですが、大乗仏教はブッダが死んだ後から成立したので、正確にブッダの言葉ではないと主張されれば、当にそのとおりなのです。
只、ブッダは悟った人と云う意味なので、「ガウタマ=シッダールタでなくても悟った人物の言葉であれば、お経で在る」、と云う理屈にはなるかと思います。

 では一体大乗仏教のお経は、誰が書いたのかに関して、現在も全然分からないのです。
視点を変えて、悟った人物が書けばお経として認められるかと否かとなると此れは無理で、まずインドで書かれている事が条件の様です。
中国で書かれたお経も存在するのですすが、インドでの原典が無いモノは偽経といって贋作扱いされています。

 クシャーナ朝とナーガルジュナの活躍した時代は重なり、この時期に大乗仏教が一気にインドで流行し始めたのでしょう。

インダス文明・続く・・・

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