2013/05/10

歴史のお話その111:中国大陸①

<黄河文明>

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歴史のお話も中国に到達しました。

 黄河文明が黄河中流域で誕生したのは紀元前5000年頃と推定されています。
黄河文明の前半を仰韶文化(紀元前5000年~紀元前3000年頃)と呼び、仰韶は「ぎょうしょう」または「ヤンシャオ」と読みますが、この名称は代表的な遺跡から名前がつけられています。
特徴は土器で彩陶と呼ばれる土器が出土するのですが、これはメソポタミア文明の彩陶とよく似ており何らかの影響があるとも云われています。

 後半は龍山文化(紀元前2900年~紀元前2000年頃)で、読み方は「りゅうざん」または「ロンシャン」、黒陶、灰陶土器が出土します。
黒陶が龍山文化の特徴で、その名前の通り真っ黒な土器で、ロクロを使い高温で焼き上げたと思われます。
彩陶に比べて薄手でしかも固く、技術も高度になっています。
推定ですが、黒陶は特殊な目的の為に造られた土器で、日常生活で使用したものが灰陶だと思われます。
こちらは素朴な造りが多いのですが、形は面白いものが在り、その代表が三足土器。
これは水等を入れて、この三本足の下で火を焚いて煮炊きしたと思われます。

 黄河文明とは別に最近は長江流域に遺跡群が発見され、長江下流の河姆渡(かぼと)遺跡では稲作の跡が見つかっています。
この付近は気候風土も日本列島に似ており、日本の稲作は意外とこの様な場所から直接伝わったのかもしれません。
中国南部から台湾、琉球列島、朝鮮半島南岸、日本列島も含めて太平洋地域には似たような風俗が残っています。
中国南部は遠い様に感じますが、海は人と人を隔てるものではなく、重要な交通路でも在り、遣唐使等も朝鮮半島沿いに航海した方が安全と思いますが、意外と直接中国南岸に向けて、航海しています。
上流域には竜馬古城遺跡、三星堆遺跡が発見され、これらは巨大な都市の遺跡です。

 これら長江流域の遺跡と黄河文明との関係は、現時点ではっきりと解明された訳では無く、黄河文明とは別の独立した文明として、将来は長江文明という形で認識されると思われます。
まだ研究途上の遺跡なので、紹介に留めておきます

 黄河文明が発展していく中で都市が誕生します。
中国古代の都市を邑(ゆう)と呼び、邑の文字は口と巴からできています。
口は人々が住んでいた集落を取り囲む城壁を表し、巴は人が座っている姿を字にしたもの。
つまり人が集まって城壁の中で暮らしている、これが邑なのです。
この様な邑が黄河中流域に数多く形成されました。

 黄河の下流域はまだ文明圏に入っておらず、黄河は始終大氾濫をおこし、歴史時代に入ってからも何回も川筋が変わっています。
下流域は洪水の危険が多すぎて、当時の生活技術では人は住めなかったと思います。
以前NHKが「大黄河」をシリーズで紹介し、現在の黄河の河口の映像が見る事ができました。
黄河河口の姿をこのシリーズで、初めて見る事が出来ました。
全面黄色、どこが陸でどこが河でどこが海か全然区別の出来ない風景が、何十キロも続いているのかと思いました。
現在も中国大陸は黄河によって運ばれる黄土によって拡大していすが、昔は湿地帯で人が入り込めないような地形が下流域に拡がっていたと推定されます。

黄河文明続く・・・


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