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2013/05/15

歴史のお話その115:古代王朝①

<周その1>

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武王

◎周

 殷を滅ぼした王朝が周です。
周は現在の西安付近に存在した邑で、本来は殷に服属していたと思われますが、次第に力をつけてきて周辺の邑を支配下に置く様になり殷の統率から離脱したと推定されます。
最後は殷を中心にする邑連合と、周を中心とする連合が決戦をして周が勝利し、これが紀元前1027年のことでした。
この時の周の王様が武王と云い、殷の王様が酒池肉林の紂王でした。

 周の存在した場所は、当時の中国文明では辺境なので、周を建てた部族は西方の異民族系統であった可能性が強いのですが、漢民族と呼ばれる様になる中国文明を形づくった民族は、この様に周辺の民族が中国文明化して形成され、周を基礎を創った人々は辺境の蛮族に近いので、戦も強かったと想像出来ます。
 
 周が都を定めた場所が鎬京(こうけい)、今の西安付近です。
周の支配制度は「封建制」で、周王は、有力氏族の首長に邑を与え、未開の土地は無尽蔵に存在しますから、新たな邑を建設させてそこの統治を任せたのです。
この様に新しい邑が、周の支配下の土地に数多く建設されることに成りました。
従来の邑の中には、殷と近い関係在るも沢山あるでしょうから、周王は配下の邑を形成することで全土に覇権を利かすことができたのです。
周王から邑の支配を任された者を諸侯と呼び、諸侯は周王に対して軍役と貢納の義務を負いますが、それ以外は自分の領地をどう支配してもかまいません。
諸侯は自分の邑の周辺に配下の有力者を配置し、彼らも又小さな邑を支配するのです。
彼等のことを卿・大夫・士(けい・たいふ・し)と呼びます。
 
 身分制度を示すピラミッド型の頂点から、周王、諸侯、卿・大夫・士と序列に合わせて邑を支配している姿が周の封建制で、士以上が貴族身分、支配者階級と考えれば良いでしょう。

 この周の封建制は日本や西欧の封建制とは違います。
例えば日本の中世でも同じですが、領主は領土を与えてくれた君主に恩義を感じて忠誠を誓う姿が封建制の特徴です。
領地を与えることで主従関係が生じるという契約関係で、領地と忠誠を交換している訳です。

 周の封建制を支えているのは、その様な契約関係では無く、血縁関係でした。
これを宗族と云い、共通の祖先から枝わかれしたと信じている集団で、同じ宗族だから協力し合うことで上下関係、支配層の統制を保ちました。

 宗族の規範のことを宗法と云い、宗法では、周の王様は御本家、諸侯は分家、卿・大夫・士は更に小さな分家です。
分家は本家に逆らえません。
それは本家だけが、祖先の霊を祭ることができるからです。
分家の者が祖先神を祭っても良いのですが、本家がお祭りすることで御先祖様は一番喜ぶと考えられたのです。

 御本家の周の王様に逆らうことが出来ません。
これが宗法、この秩序で周王は諸侯を統率したのですが、何処か宗教的です。

周は殷を滅ぼした時にその王家の者を殺しませんでした。
殷王の家系が断絶すると、殷王家の祖先神を祭る者が不在に成り、その結果、殷の祖先神が災いをなすかもしれません。
それは恐ろしいことなので王家の者は生かしておくと真面目に考えられた政祭一致の時代なのです。

周・続く・・・

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