2013/05/22

歴史のお話その120:古代王朝⑥

<富国強兵①>

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◎諸国の富国強兵

 春秋時代末期から戦国時代に移り変わる中で、各国間の戦いも日常的に成り、準備を怠ると他国に併合され国が滅びます。
そこで、国々は懸命に富国強兵策を行いました。

 どの国も富国強兵に必死で在った事は、種々の話が今日迄伝えられています。
例えば、趙の武霊王、この人物は軍隊を強くする為、騎馬遊牧民族の戦法を導入しました(紀元前309年頃)。
基本的に中国の戦法は歩兵か戦車を使用し馬に直接跨る事は在りませんでした。
中国人の衣類はゆったりした作りで、袖は袂が広くて、裾は足を大きく広げる事が出来ず、乗馬に適していないのです。
 
 遊牧民の騎馬戦術は、機動力が在り強力である事は明らかで、武霊王はこの戦術を導入しようとしました。
その為には、まず、服装の改革が第一ですが、これが貴族達の猛反対に合います。
理由は、「遊牧民の様な野蛮人の服は着たくない」、当然ながら文明人は誇り高いですから。

 当時の遊牧民はどの様な服を着ているかと調べてみると、基本的に現在の衣類と同じです。
馬に跨る様に足を広げられるズボン、弓を引き易い様に袖も真っ直ぐな筒袖、私達が今着ている服はヨーロッパからの渡来ですが、遊牧文化起源のものなのです。

 武霊王は貴族達の反対を押し切って改革を断行し、之を騎射胡服の採用と云います。
誇り高い中国文明人が遊牧民の文化を受け入れる事は凄い事なので、戦国の厳しさが反映していると思います。

 国を強くする為には武霊王の様に改革を次々に行わなければ成りません。
しかし、従来の支配者階級、卿・大夫・士等の貴族達は何もしなくても名門なので、積極的に改革に取り組む事も無く、取り組むだけの才覚のある人材も少なかったのです。
庶民出身でも優秀な人材は居り、彼等を使わない方策は無く、出身・身分にとらわれない能力主義の人材登用が行われる様に成ります。

 当時の諸国の諸侯達が、人材登用に熱心で在った事を表す話はたくさん在ります。
「まず隗(かい)より始めよ」、私の高校時代にこの話は、漢文の教科書に載っていました。
燕の昭王(紀元前3世紀初頭)の時、昭王は何とか優秀な人材を集めて国を発展させたいと思っていました。
ところが燕の国は、現在の北京付近に位置するのですが、当時は北の辺境の国なので、この様な辺境の寒い国にどうすれば有能な人材が来てくれるだろうかと悩みました。
そこで、大臣の郭隗に相談するのですが、郭隗が言った言葉が「まず隗より始めよ」。
その意味は、「私にたくさんの褒美を与えなさい、私の為に宮殿を造ってくれ、それからいっぱい褒美として財宝を下さい、そして、私を先生として敬いなさい」と云います。
昭王が「それはどういうことか」と聞くと、郭隗はこの様に答えました。
「私は大した人物ではないし、才能もあまり有りません。しかし、この凡人の郭隗にすら昭王が莫大な褒美を与えて、先生として敬っているという噂はすぐに全土に広まるでしょう。そうすれば、私よりも才能のある人々がもっと良い待遇を与えられるに違いないとたくさん燕の国に訪れるに違い在りません」、と。

 昭王はなるほどと思い、郭隗の提言を実行します。
当然ながら、中国全土から優秀な人材がたくさん集まって来たそうです。
この様に諸侯達は、人材獲得に情熱を注いだのでした。

 斉の宣王(紀元前4世紀末)はやはり人材を集めます。
学者であればどんどん召し抱えて都・臨シ(リンシ)には学者街が出来る程でした。
臨シには稷門(しょくもん)と云う城門が在りその近くに学者達が集まって住んだので「稷下の学」と呼ばれました。
学者達は特に仕事がある訳では無く、一日中議論を行い、その中から良い策があれば斉の国政に反映されたと云います。

 この様な状況は、庶民の側からすると才能さえあれば自分を売り込む絶好の機会です。
生まれは関係ない、身分も関係ない、有能な人材だと認められれば何処かの国で高い地位について財産を蓄えることもできるわけです。
その為色々な学問を身につけ、特技を持ち、諸国を遍歴して就職活動する政治家志望の人物が沢山現れました。

富国強兵・続く・・・

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