2013/05/24

歴史のお話その122:古代王朝⑧

<富国強兵③>

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◎商鞅の変法その2

 商鞅の政治改革は「変法」と呼ばれます。
その改革とは、まず「什伍(じゅうご)の制」。
国民を五軒、十軒毎に隣組を作らせます。
隣組は日本でも太平洋戦争の最中、町内に組織されましたが、此方の場合は納税や防犯の連帯責任をとらせるために組を作らせたのです。
例えばその中のどこかの家が犯罪者を匿ったりしたら隣組全体が罰せられ、納税、応召、賦役と、政府との関係で連帯責任を持たされたのです。

 更に農家の分家を強制的に実行しました。
当時秦の国では大家族制度で、一つの家の中に結婚して子供もいる兄弟達が同居しているのです。
これでは労働生産性が低い為、次男以下は強制的に分家政策を行い、未開の土地に入植させました。これによって耕地が拡大し、戸数も増え、国家収入も増加したのです。

 商鞅の変法は、伝統的な農民の生き方を無理矢理変えるものなので、ずいぶん抵抗もあったようです。
ある時田舎の長老達が商鞅に面会に来て、商鞅に対して、「政治が厳しすぎる、もっと優しくしてくれ」、と訴えました。
商鞅は、「一般民衆の分際で支配者に文句を言うとはけしからん」、と言って皆処刑してしまいました。
彼の政治方法は厳しいのですが、商鞅の政治政策が軌道に乗ってくると治安も安定して、盗賊はいなくなる、道に財布が落ちていても恐れて誰も拾わないくらいに成り、やがて、別の田舎の長老達が商鞅に面会に来ました。
今度は、「商鞅様のおかげで安心して暮らせるようになった、有り難や。」と商鞅を誉め称えにきたのです。
すると商鞅は、今度も処刑を実行します。
理由は、「庶民の分際で、御政道を誉めるとは身の程を知らぬ、畏れ多い行いだ」、と云う理由です。要するに商鞅は国民が政府を批評すること自体を許さず、黙って支配されておるべし、と言っているのです。

 軍功による爵位制も実行しました。
戦争の時に活躍した分だけ身分を上げ、爵位を送る、その活躍は敵の首を幾つ取って来たかということで、殺した人数によって身分があがり、逆に先祖代々の貴族でも敵の首を取って来なければ爵位は与えられません。
当然貴族には評判悪いことと成ります。

 これらの改革によって西方辺境の三流国だった秦は一躍戦国時代の主導権を握る大国に成長することが出来ました。

 ところで、この商鞅は、益々孝公に信頼されて、位は最高位、15の邑を授かり、財産は王と並ぶほど、という絶好調が続きますが、やがて、頼りにしていた孝公が崩御しました。
所詮商鞅はよそ者で、孝公の絶大な信頼があったから権力を握っていられた訳ですが、貴族達に敵は多い。
孝公が崩御すると、恨みを持つ貴族達が商鞅にでっちあげの謀反の罪を着せ、新しい秦王はそれを信じてしまいます。

 こうなるとさしもの商鞅もどうしようもなく、追っ手から逃れて国外逃亡を計りました。
国境近く迄逃げると夜に成り、近くの町の旅籠に泊まろうと、旅籠の扉をたたくと、爺さんが出てきました。
「おい、止めてくれ。」と商鞅が言うと、爺さん「通行手形を持っておいでか?」と聞きます。
商鞅は追ってから逃れてきているので通行手形等持っている訳ありませんから、「持ってない」。
そしたら爺さんこう言った。
「商鞅様の命令で通行手形を持っていない方はお泊めできません。」
「おやじ、そこをなんとか、頼む。」と言うのですが、「商鞅様の法は厳しいですから、泊めた私が後で首をはねられますんで・・・。」と云う訳で結局商鞅は宿屋に泊めてもらえませんでした。
自分の法律が行き届いているのは嬉しいが、それで自分が困ることに成るとは、喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。

 商鞅の外国逃亡は失敗して、最終的には反対派の貴族達に捕らえられて車裂(くるまざき)の刑を受けました。

 戦国時代の能力主義的な人材登用がなければ商鞅は決して活躍の場を与えられることはなかったでしょう。
その意味で、如何にも時代の人です。

富国強兵・終わり・・・


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