2013/05/27

歴史のお話その124:古代王朝⑩

<諸子百家その②>

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老子と孔子

◎孔子・第二回

 孔子自身は小国魯の出身で、その大臣の要職に就いたことも在りましたが失脚し、その後は諸国を遍歴します。
はじめの頃は何処か国で、商鞅の様に高い身分で迎えられることを目標にしていたと思われますが、それは実現しませんでした。
彼の周りには多くの弟子が居り、政治家としてよりは教育者として活躍した人物で、その孔子の弟子からは政治家として活躍する人が数多く輩出されました。

 改めて「孔子」の「子」は先生の意味ですから、「孔子」は孔先生の意味です。
本名は孔丘と云い、大先生だから名前を呼ぶのは失礼で畏れ多いので、本名で呼ばずに孔先生と呼んだのですが、それがそのまま今日迄定着してしまったのです。
中国の思想家で「~子」と表記される人名は皆同様です。

 孔子の弟子達が編纂した孔子の言行録が「論語」で、昔は日本でもよく読まれ書物でした。
ヨーロッパの哲学の様に概念が整理されておらず「仁」という言葉も、状況に応じていろいろな説明の仕方をしているので正直解りにくいものです。

 面白い表現も記述されています。
例えば「巧言令色(こうげんれいしょく)少なし仁」。
意味は「顔がきれいで口が上手な人間に思いやりのある者は少ない」面白い考え方です。

 有名な記述では「義を見て為(せ)ざるは勇なきなり」。
意味は「正しいことが行われているのに、何もせずに黙ってみているだけというのは勇気がない」。
「朝(あした)に道を聞がば、夕べに死すとも可なり」。
意味は「朝、正しい生き方を知ることができたならばその日の夕方に死んでも思い残すことはない」。
上記の部分は読んでいるこちらの人生観に迫ってくるところがあるのです。
その為か、実業家、社長職の方々に論語が好きな人は多い様です。
ある程度社会的年輪を重ねたら、読んでみたくなるのかも知れません。

 「子曰く、学びて時にこれを習う、亦(ま)た、説(よろこ)ばしからずや」。
意味は「先生がおっしゃった、勉強した後で、時々みんなで集まって復習する、何と楽しいことか!」
何を復習するかというと、音楽らしいです。
孔子の「礼」には音楽も含まれており、諸侯がいろいろな儀式を行います。
例えば他国の諸侯と接見、会合を持つ、その様な場面では式場では宮廷楽団が儀式の音楽を演奏するのです。
どの様な状況の時にどの様な音楽を演奏するのが礼にかなうか、其れを孔子は研究して、弟子たちに教えていました。

 「斉に在りて韶(しょう)を聞く」という図があります。
これは、孔子が斉の国に行ったときに斉の宮廷音楽長官と知り合って「韶」という音楽を聴いたときの様子を絵にしたものです。
これは伝説の聖王舜(しゅん)が作曲したといわれる幻の曲で、孔子は感激して必死になってこの曲をマスターしたと云います。
この様な楽曲を弟子達に教え、弟子達も皆で合奏して「時にこれを習う」訳です。

 古代社会では音楽は単に個人の趣味や楽しみではなくて、神々に呼びかけ世界の秩序を保つ為のものでも在ったのです。

 孔子以前の時代に、もともと冠婚葬祭などの儀式を恙無く行う為の式典の専門家集団が存在しました。
中国文明は祖先神崇拝が強く、葬式が一番大事、この式典専門家達は死んだ祖先の霊を呼び出したりもした様で、霊媒みたいなことも行なっていました。
巫祝(ふしゅく)と呼ばれる集団です。
神がかり的行いの多い彼等は、胡散(うさん)臭いと感じられ、社会的地位の低い人々でした。

 孔子が大事にした「仁」という言葉ですが、これの女性形が在ります。
「仁」に女をつけると「佞(ねい)」という字になり、これは「おもねる・おべっかつかい」という意味に成り、全然いい言葉では在りません。
巫祝達が葬式等で喪主など主催者におべっかを使って、調子の良いことばかり話します。
女がこれをやると「佞」、男がおべっかを使えば「仁」だったのです。

 孔子はこの伝統的式典専門家集団から出て、それ迄使われていた言葉の意味をひっくり返し、価値の高い言葉に作り変えたのです。
泥臭い民間信仰が混在していたものを合理的、理論的に作りかえて学問に迄高めた人なのです。
その考えの基礎に祖先神崇拝みたいな感覚があるので、中国人の感性に合っていて深く根付いたのでしょう。

諸子百家・続く・・・

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