2013/05/28

歴史のお話その125:古代王朝⑪

<諸子百家その③>

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◎孟子、荀子

 孔子以後の儒家の学者で、重要な人が孟子(紀元前4世紀~紀元前3世紀)です。
孟子は「性善説」を唱えました。
人間には生まれながらにして思いやりの心「仁」がある、と説き、例として孟子はこの様な事を言っています。
「強盗、殺人等、悪の限りを尽くした極悪人が居ます。彼は何処かの庭先に居ると、其処にはようやく一人歩きができるようになったばかりの幼児が居て、その子供が井戸に近づいていきます。幼児なので井戸が深くて危険なこと等解りませんから、そのまま進んで井戸に落ちそうに成りました。その様な状態に成れば、どんな極悪人でもその瞬間には「危ない!」と思わず手を伸ばして幼児を救おうとする。」
この様な話を出して、「人は本来「仁」の心がある、生まれながらに善だ」、と説きました。

 人は生まれながらに善、ならば犯罪や戦争は起きるはずがないのですが、何故世の中は乱れ、戦乱が続き民衆は苦しまなければならないのでしょう。
孟子は下の者は上の者を見習うと考えます。
「王の地位にあるものは「礼」を身につけて人民の手本とならなければならない。王様がそれをできていないと下剋上が起きたりして国が乱れる」と言います。
 
 「若し王が、その地位に相応しく無い人間で「礼」を身につけて立派な行いをすることが出来ない結果として、人民の「善」を押しつぶして、彼らを不幸にする場合は、その様な王様は取り替えても良いのだ」、とまで言っています。
これを「革命説」と云い、革命とは「天命が革(あらた)まる」と云う意味です。
では天命は何によって知ることができるのでしょう。
孟子の場合、天命は人民から訪れると云います。

 孟子は諸国を巡って王達にこの様な話を説きました。
「王よ、礼を身につけよ!天命に耳を傾けよ!」と。
王様にとっては耳に痛い話なので、孟子は煙たがられたかというと、実はそうでは在りません。
彼の話には人気が在り、招かれては講話の為に諸国を巡ったのです。
諸侯の様に豪勢な馬車に乗り、何十人もお供の者達を従えての諸国訪問です。

 孟子は当時は有名で、その後も儒家の偉い先生として尊敬されていきます。
現代に至る迄の長い歴史の中で、孟子の崇拝者は数多く居ますが、只「革命説」のような過激な部分が存在しますで、熱心な孟子の崇拝者は危険人物扱いされる傾向が有る様です。

 日本でも例えば、吉田松陰、幕末の長州藩士で、熱心な孟子の信奉者です。
ペリーが来朝した時に、アメリカをこの眼で見聞したい気持ちを抑えられず、弟子と一緒に漁船を漕いで黒船まで行きました。
側面よじ登って黒船に乗り込み、アメリカへの訪問を懇願するのですが、ペリーも幕府と外交交渉中為、幕府の顔を立てて松陰と弟子を幕府に引き渡しました。

 国禁を破った犯罪者になった松陰達は、長州藩に送られ収監されてしまい、弟子の方はすぐ死んでしまうのですが、松陰は萩の野山獄に入れられました。
牢屋の中には色々な犯罪者が入牢しており、其処で松陰は孟子の講義を始めるのです。
「あなた方は罪を犯した極悪人であるけれど、生まれた時からそうだったわけでは無い。生まれたときは貴男方も善人だったのです!」と説きます。
吉田松陰は未だ二十歳代の若者ですが、この様な話を囚人相手に行い、囚人達は、皆松陰の弟子になってしまい、年かさの悪人が「先生、先生」と松陰を慕って行きます。

 そのあと、松陰は保釈になって実家で謹慎処分に成り、松陰は実家で近所の若侍を集めて塾を開きました。
これが松下村塾、ここで松陰は革命説を説き、松陰の門弟から桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文等明治維新の元老達が育って行ったのです。
これは、松陰が孟子の学徒だったことと無関係では在りません。

 松陰の最後は、やがて幕府は井伊直弼が大老と成り、安政の大獄が始まります。
松陰も江戸迄召しだされて取り調べを受け、謝罪を行い反省の態度を見せれば死刑にはならず、密航を企てただけの罪で済ました。

 しかし、ここで松陰は正面から幕府の批判を行い、幕府の役人がその話を聞いて腹を立てないはずは無く、松陰は幕府の役人の言葉に操られ。終には質問もされないのに老中暗殺計画まで喋ってしまいます。
結果的に幕府に対する反逆者として処刑されてしまいましたが、私見ですが思想が先走ってしまい現実的な身の処し方には少々甘い処が在ったのではないでしょうか。

 話が吉田松陰に行ってしまいましたが、儒家をもう一人、荀子(紀元前3世紀)、戦国時代末期の人物です。

 荀子は孟子とは反対で「性悪説」で有名。
「人は生まれながらにして悪、仁や孝を身につけて生まれてきた訳ではない。だから君主、王たる者の役目は人民に教育して「仁」「礼」を身につけさせることだ」と説きました。
 
同じ儒家だから「孝」「仁」「礼」を秩序の柱にして社会を立て直そうというところは同じですが、その具体的なやり方は百八十度違うところが興味を引きます。


諸子百家・続く・・・
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