歴史のお話その126:古代王朝⑫
<諸子百家その④>

◎墨家
墨家(ぼくか)は戦国時代が終わると消滅した学派なので、あまり馴染みがありませんが、戦国当時は儒家と同じくらい支持を受けていました。
墨家の元祖が墨子(ぼくし・紀元前5世紀~紀元前4世紀)、説は二つ「兼愛説」と「非攻説」です。
兼愛は「差別無き人類愛」とでも言う意味で、墨子は儒家を批判する中で自己の学説を立てます。
儒家の「礼」を差別だと批判して「兼愛」をとなえるのです。
なぜ、儒家の「礼」が差別なのでしょう。
例えば、忌引き。
現在なら何処の企業でも学校でも忌引きの規定が在り、親族に不幸があった場合、何日か休んでも欠席扱いに成りません。
この制度は儒学の教えからでているのです。
親が亡くなり、親に対する「孝」は人間の真心「仁」の中でも最も基本的な感情なので、悲しいことなのです。
悲しみから、とても平常心では居られず、仕事や勉強等手につくはずが在りません。
その為、仕事や学校を休むことが許されるのが、忌引きの理論的根拠です。
又、喪に服す行為が死んだ親に対する「礼」でもある訳です。
親が亡くなった場合の忌引きが五日ですが、この五日間は何も手につかない、という社会的な共通理解があるからです。
さて、そこから先が問題なのです。
祖父母が亡くなった場合は忌引きの日数が三日、それ以外の親族は一日と成り、その他に忌引きは在りません。(会社の就業規則では、その様に明記されていませんか?)
これを墨家は差別と指摘するのです。
儒家は人間関係を親から始まって、同心円上に序列化し、親を中心に遠くなるにしたがって「仁」「礼」が薄く、軽くなっていくことこそが秩序と考えます。
しかしながら、血縁関係が無くても大事な人が居なくなったら悲しいことに違いは在りません。
恋人と引き裂かれると考えるだけで辛いことですが、儒家は恋人が居なくなっても悲しくない、悲しんではなら無い、恋人は大事ではないと、考えるのです。
この発想は人間の常識的な発想として不自然で、ここの無理を墨家は責める訳です。
そこで「兼愛」、誰であろうと差別せず同じように愛さなければならない、と説いているのです。
総ての人を平等に愛するならば、親が死んで悲しいように他人が死んでも悲しくなくてはならず、戦争で家族が死んで欲しくないように、他人が戦争で死ぬのも黙って見ていられない筈です。
そこで、墨家は「非攻」をとなえました。
「非攻」とは絶対平和主義のことで、どんな戦争にも墨家は反対する。
彼等は「戦争反対!」と言うだけでは無く、戦争を止める為に全土を駆け回ります。
墨家集団が存在し、これは墨子の弟子達が構成員ですが、技術者集団で様々な戦争技術を持っています。
例えば、小国が大国に攻められ、侵略戦争が起きると、攻められている国に駆けつけて防衛戦争を手伝うのですが、大国側、侵略側には絶対に立ちません。
ある時、宋という小国が楚に攻められそうに成り、さっそく墨家集団は宋防衛の準備をします。
墨子自身はたった一人で楚の国の都に出向いて楚王に面会を申し込みました。
楚王に会うと墨子は云う。
「既に墨家集団が宋国に入り防衛の準備は整っている。楚では城攻めの新兵器を開発したと聞くが、われわれも準備は万端だ。決して宋を攻め落とすことはできません。無駄な出兵はおやめなさい」、と。
楚王も勝算が十分在るので出兵を止める訳が無く、墨家は、実際に楚が勝つか宋が勝つか王の目の前で図上演習を申し出ます。
楚の将軍が連れてこられて墨家と対戦することに成り、兵士の配置、陣営、攻撃手段を説明すると、その対抗策を次々に打ち出し、結局、墨子が勝ってしまったのです。
そこで、墨子は言ったそうだ。「王よ、だから宋を攻めるのは無駄です。おやめなさい。おっと、今私をここで殺しても同じ事ですよ。私の弟子たちはみんなこの作戦を知っている。私を殺しても王は勝てないし、逆にたった一人でやって来た墨子を恐れて殺したと、全国の笑いものになるでしょう。」
結局、楚王は墨子をそのまま帰し、宋への出兵も取り止めた、ということです。
同じ様な話が幾つかあるので、この話もどこまで実話かわかりませんが、墨家の雰囲気をよく伝えていると思います。
墨子、これは墨先生を意味するのですが、墨はどうも本名では無いらしく、一種の仇名とも云われています。
その由来がいくつか伝えられているのですが、一つに墨子は奴隷出身だったとの説が在り、奴隷は逃亡を防ぐ為に顔に入れ墨をされていました。
墨子も顔に入れ墨が在り、その為「入れ墨先生」の意味で墨子と呼ばれる様に成ったと云います。
墨子が奴隷出身と考えると、差別区別することなく、人を愛すべしの思想が良く理解できると思います。
私自身大変興味深いことが、墨子の率いる集団が戦争技術の達人、傭兵として数多くの防護用武器乃至機器を発明していることから、奴隷とは言え、戦闘集団の育成、戦術の構築、兵器開発等を手がけた技術者ではなかったのかと考えています。
墨家は大変持て囃されましたが、戦国時代の終わりと共に消滅して行きました。
戦争の規模そのものが大きく成り、墨家の率いる少数精鋭集団の存在だけでは、もはや戦争を回避する術を失ったと考えられます。
此れは、現在の高度に発達した武器システムを活用する、戦争に云えることですね。
諸子百家・続く・・・

◎墨家
墨家(ぼくか)は戦国時代が終わると消滅した学派なので、あまり馴染みがありませんが、戦国当時は儒家と同じくらい支持を受けていました。
墨家の元祖が墨子(ぼくし・紀元前5世紀~紀元前4世紀)、説は二つ「兼愛説」と「非攻説」です。
兼愛は「差別無き人類愛」とでも言う意味で、墨子は儒家を批判する中で自己の学説を立てます。
儒家の「礼」を差別だと批判して「兼愛」をとなえるのです。
なぜ、儒家の「礼」が差別なのでしょう。
例えば、忌引き。
現在なら何処の企業でも学校でも忌引きの規定が在り、親族に不幸があった場合、何日か休んでも欠席扱いに成りません。
この制度は儒学の教えからでているのです。
親が亡くなり、親に対する「孝」は人間の真心「仁」の中でも最も基本的な感情なので、悲しいことなのです。
悲しみから、とても平常心では居られず、仕事や勉強等手につくはずが在りません。
その為、仕事や学校を休むことが許されるのが、忌引きの理論的根拠です。
又、喪に服す行為が死んだ親に対する「礼」でもある訳です。
親が亡くなった場合の忌引きが五日ですが、この五日間は何も手につかない、という社会的な共通理解があるからです。
さて、そこから先が問題なのです。
祖父母が亡くなった場合は忌引きの日数が三日、それ以外の親族は一日と成り、その他に忌引きは在りません。(会社の就業規則では、その様に明記されていませんか?)
これを墨家は差別と指摘するのです。
儒家は人間関係を親から始まって、同心円上に序列化し、親を中心に遠くなるにしたがって「仁」「礼」が薄く、軽くなっていくことこそが秩序と考えます。
しかしながら、血縁関係が無くても大事な人が居なくなったら悲しいことに違いは在りません。
恋人と引き裂かれると考えるだけで辛いことですが、儒家は恋人が居なくなっても悲しくない、悲しんではなら無い、恋人は大事ではないと、考えるのです。
この発想は人間の常識的な発想として不自然で、ここの無理を墨家は責める訳です。
そこで「兼愛」、誰であろうと差別せず同じように愛さなければならない、と説いているのです。
総ての人を平等に愛するならば、親が死んで悲しいように他人が死んでも悲しくなくてはならず、戦争で家族が死んで欲しくないように、他人が戦争で死ぬのも黙って見ていられない筈です。
そこで、墨家は「非攻」をとなえました。
「非攻」とは絶対平和主義のことで、どんな戦争にも墨家は反対する。
彼等は「戦争反対!」と言うだけでは無く、戦争を止める為に全土を駆け回ります。
墨家集団が存在し、これは墨子の弟子達が構成員ですが、技術者集団で様々な戦争技術を持っています。
例えば、小国が大国に攻められ、侵略戦争が起きると、攻められている国に駆けつけて防衛戦争を手伝うのですが、大国側、侵略側には絶対に立ちません。
ある時、宋という小国が楚に攻められそうに成り、さっそく墨家集団は宋防衛の準備をします。
墨子自身はたった一人で楚の国の都に出向いて楚王に面会を申し込みました。
楚王に会うと墨子は云う。
「既に墨家集団が宋国に入り防衛の準備は整っている。楚では城攻めの新兵器を開発したと聞くが、われわれも準備は万端だ。決して宋を攻め落とすことはできません。無駄な出兵はおやめなさい」、と。
楚王も勝算が十分在るので出兵を止める訳が無く、墨家は、実際に楚が勝つか宋が勝つか王の目の前で図上演習を申し出ます。
楚の将軍が連れてこられて墨家と対戦することに成り、兵士の配置、陣営、攻撃手段を説明すると、その対抗策を次々に打ち出し、結局、墨子が勝ってしまったのです。
そこで、墨子は言ったそうだ。「王よ、だから宋を攻めるのは無駄です。おやめなさい。おっと、今私をここで殺しても同じ事ですよ。私の弟子たちはみんなこの作戦を知っている。私を殺しても王は勝てないし、逆にたった一人でやって来た墨子を恐れて殺したと、全国の笑いものになるでしょう。」
結局、楚王は墨子をそのまま帰し、宋への出兵も取り止めた、ということです。
同じ様な話が幾つかあるので、この話もどこまで実話かわかりませんが、墨家の雰囲気をよく伝えていると思います。
墨子、これは墨先生を意味するのですが、墨はどうも本名では無いらしく、一種の仇名とも云われています。
その由来がいくつか伝えられているのですが、一つに墨子は奴隷出身だったとの説が在り、奴隷は逃亡を防ぐ為に顔に入れ墨をされていました。
墨子も顔に入れ墨が在り、その為「入れ墨先生」の意味で墨子と呼ばれる様に成ったと云います。
墨子が奴隷出身と考えると、差別区別することなく、人を愛すべしの思想が良く理解できると思います。
私自身大変興味深いことが、墨子の率いる集団が戦争技術の達人、傭兵として数多くの防護用武器乃至機器を発明していることから、奴隷とは言え、戦闘集団の育成、戦術の構築、兵器開発等を手がけた技術者ではなかったのかと考えています。
墨家は大変持て囃されましたが、戦国時代の終わりと共に消滅して行きました。
戦争の規模そのものが大きく成り、墨家の率いる少数精鋭集団の存在だけでは、もはや戦争を回避する術を失ったと考えられます。
此れは、現在の高度に発達した武器システムを活用する、戦争に云えることですね。
諸子百家・続く・・・
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