歴史のお話その129:古代王朝⑳
<諸子百家その⑦>

◎老子とは、如何なる人物だったのか
今回の諸子百家では敢えて触れませんでしたが、中国の思想家の中で、古くから最も親しまれた人物は、老子ではないでしょうか。
民間宗教として、広く一般に普及した道教に在っては、老子が教祖とされ、老子の化身たる、太上老君は、道教において神でも在りました。
唐の朝廷も道教を崇拝し、帝室の教えとされ、更に、太上玄元皇帝と云う尊号まで捧げられています。
それは、唐王朝の帝室の姪が李氏であり、老子の姪も李氏であったと伝えられるからです。
では、老子は、何時の時代に存命した人物なのか、この点について司馬遷は、「史記」の中に記述しています。
老子の名は耳、呼び名はたん(当用漢字無)、姪は李氏であり、周の国に使えて司書の役人と成りました。
そこへ孔子が尋ねて行き、礼について問うと、老子は、喩話を引合いに出しながら、
「良い商人は、品物を奥に置き、店先には殆んど何も無い。偉い学者は、優れた徳を身の内に深く備えながら、顔は、愚か者のように見える」。
そして、孔子に対して、「貴方の高慢と野心、好奇の念を捨て去りなさい。どれも貴方には、何の役にも立たないものだ」と諭しました。
孔子は、門弟に「今日は老子に会って来た。まるで龍のような人物だ。龍は風雲に乗って天に昇ると云うが、全く掴み処の無い人物だ」。
事実、老子は、虚無の道の修行を積み、その学問も世間から隠れて、名声が聞こえる事を避けており、長らく周の都、洛陽に住んで居ましたが、周の国が滅ぶとその地に別れを告げました。
その時、関の役人に教えを書き残しておく事を懇願され、上下二編、五千余字の書を表した後、立ち去ったと云われています。
その後、老子の最後を見とどけた人物は、後世に伝わっていません。
さて、以上の文書から、孔子と同時代、しかも孔子より先に生まれた人物となりますが、孔子は、魯の国の生まれで、紀元前6世紀末から紀元前5世紀初頭、春秋戦国時代の後期に活躍した思想家で、先に述べた司馬遷は、時代を400年位隔てた人物でした。
司馬遷の時代、既に老子についての話は、曖昧なものとなり、「老子」という書物は、存在してもその著者が、如何なる人物であったのかは、全く判らなくなっていました。
司馬遷も上述の話の後に、他にも「老子」の著者が別に存在したらしい事を記述しています。
老子という尊称も不思議で、ここで「子」は先生の意味で用いられ、孔丘の事を孔先生と呼び、孟軻の事を孟先生と呼びましたから、老子の姪が李氏ならば李先生と呼ぶ事が普通と考えられます。
現在の歴史に於いても老子については、不明な部分が多く、一部の学者の中には、その存在を否定する説を唱える者も居りますが、現実に「老子」と云う書物は、実在しそこに記述されている思想を持った人物が、存在した事も否定できません。
では、老子は何時の時代の人間で、「老子」は何時頃編纂された書物なのでしょうか?
老子が、孔子に道を教えた話は、明らかに後世の伝説であり、「老子」に説かれている思想も孔子より後、先の春秋戦国時代のものと推定されています。
戦国時代後期、孔子の後を継いで、孟子が活躍しますが、孟子は盛んに他の学派を攻撃し、特に墨子と楊朱を排撃していますが、老子については、言及していません。
これは、孟子の時代にまだ、老子がこの世に現れて居なかった事を意味するのではないでしょうか?
「老子」と云う書物に述べられている思想に関しても、歴史的評価は定まっておらず、戦国時代初期、孔子から100年程後のもの、又は中期、孟子より後の時代と考える事もできます。
因みに老子と並び称される荘子は、紀元前4世紀末から紀元前3世紀初頭に活躍した、人物と考えられています。
古代中国を代表する思想家で在り、孔子、荘子と並び称される人物で在りながら、疑問点の多い人物も不思議で、本当は、後世の人が作り出した架空の人物なのか、それとも俗人と違う神仙であったのでしょうか?
諸子百家・終わり・・・

◎老子とは、如何なる人物だったのか
今回の諸子百家では敢えて触れませんでしたが、中国の思想家の中で、古くから最も親しまれた人物は、老子ではないでしょうか。
民間宗教として、広く一般に普及した道教に在っては、老子が教祖とされ、老子の化身たる、太上老君は、道教において神でも在りました。
唐の朝廷も道教を崇拝し、帝室の教えとされ、更に、太上玄元皇帝と云う尊号まで捧げられています。
それは、唐王朝の帝室の姪が李氏であり、老子の姪も李氏であったと伝えられるからです。
では、老子は、何時の時代に存命した人物なのか、この点について司馬遷は、「史記」の中に記述しています。
老子の名は耳、呼び名はたん(当用漢字無)、姪は李氏であり、周の国に使えて司書の役人と成りました。
そこへ孔子が尋ねて行き、礼について問うと、老子は、喩話を引合いに出しながら、
「良い商人は、品物を奥に置き、店先には殆んど何も無い。偉い学者は、優れた徳を身の内に深く備えながら、顔は、愚か者のように見える」。
そして、孔子に対して、「貴方の高慢と野心、好奇の念を捨て去りなさい。どれも貴方には、何の役にも立たないものだ」と諭しました。
孔子は、門弟に「今日は老子に会って来た。まるで龍のような人物だ。龍は風雲に乗って天に昇ると云うが、全く掴み処の無い人物だ」。
事実、老子は、虚無の道の修行を積み、その学問も世間から隠れて、名声が聞こえる事を避けており、長らく周の都、洛陽に住んで居ましたが、周の国が滅ぶとその地に別れを告げました。
その時、関の役人に教えを書き残しておく事を懇願され、上下二編、五千余字の書を表した後、立ち去ったと云われています。
その後、老子の最後を見とどけた人物は、後世に伝わっていません。
さて、以上の文書から、孔子と同時代、しかも孔子より先に生まれた人物となりますが、孔子は、魯の国の生まれで、紀元前6世紀末から紀元前5世紀初頭、春秋戦国時代の後期に活躍した思想家で、先に述べた司馬遷は、時代を400年位隔てた人物でした。
司馬遷の時代、既に老子についての話は、曖昧なものとなり、「老子」という書物は、存在してもその著者が、如何なる人物であったのかは、全く判らなくなっていました。
司馬遷も上述の話の後に、他にも「老子」の著者が別に存在したらしい事を記述しています。
老子という尊称も不思議で、ここで「子」は先生の意味で用いられ、孔丘の事を孔先生と呼び、孟軻の事を孟先生と呼びましたから、老子の姪が李氏ならば李先生と呼ぶ事が普通と考えられます。
現在の歴史に於いても老子については、不明な部分が多く、一部の学者の中には、その存在を否定する説を唱える者も居りますが、現実に「老子」と云う書物は、実在しそこに記述されている思想を持った人物が、存在した事も否定できません。
では、老子は何時の時代の人間で、「老子」は何時頃編纂された書物なのでしょうか?
老子が、孔子に道を教えた話は、明らかに後世の伝説であり、「老子」に説かれている思想も孔子より後、先の春秋戦国時代のものと推定されています。
戦国時代後期、孔子の後を継いで、孟子が活躍しますが、孟子は盛んに他の学派を攻撃し、特に墨子と楊朱を排撃していますが、老子については、言及していません。
これは、孟子の時代にまだ、老子がこの世に現れて居なかった事を意味するのではないでしょうか?
「老子」と云う書物に述べられている思想に関しても、歴史的評価は定まっておらず、戦国時代初期、孔子から100年程後のもの、又は中期、孟子より後の時代と考える事もできます。
因みに老子と並び称される荘子は、紀元前4世紀末から紀元前3世紀初頭に活躍した、人物と考えられています。
古代中国を代表する思想家で在り、孔子、荘子と並び称される人物で在りながら、疑問点の多い人物も不思議で、本当は、後世の人が作り出した架空の人物なのか、それとも俗人と違う神仙であったのでしょうか?
諸子百家・終わり・・・
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コメント
道教は日本への影響が大きかったですね。
古墳時代に始まり、特に天皇家に。
奈良では道教関連の遺跡を多く見ることができます。
2013-06-01 23:17 kopanda06 URL 編集