2013/06/03

歴史のお話その130:統一国家の成立①

<秦の中国統一その①>

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始皇帝

◎秦

 紀元前221年、秦が中国を統一し、都を咸陽(かんよう)、現在の西安近郊に定めました。
秦が戦国時代を終結させる事が出来た理由は、まず法家の採用でした。
商鞅、李斯等法家の政治家を抜擢して内政改革を断行した事が国力の強化につながりました。

 更に、秦が地理的に辺境地帯に在った事が有利に働いたと思われます。
戦国時代の先進国は韓、魏、趙の3国で、この一体が一番文化が進んでおり、改めて地図を見ても面積は小さいのですが、言い換えれば面積が小さい事は、それだけ人口が集中している事の裏返しです。その様な場所は、文化が高いと見て差し支え無いのですが、しかし、それは開発の余地が少ない事でも在るのです。

 秦は辺境の後発国なので、進んだ地域の文化や技術を効率よく取り入れる事が可能で、未開の地が多く存在し、周辺に向かって領土を拡大することもできた訳です。
現在の四川省方面を領土に組み入れて国力を伸ばしました。

 辺境の国としては南方の楚も同様です。
やはりこの国も戦国末期には強国として秦と対抗していますが、最終的に秦に敗退します。
後の時代、秦が滅亡した後、項羽が楚の地から出て、一時中国全体に号令するように成ります。
この地域には、やはり秦と対抗できる様な力が存在したのでしょう。

 秦が中国統一した時の王が政(せい)でした。
秦王政は、周の時代とは比較にならないくらいの大領土を支配する事に成り、結果的に王の称号では満足出来ず、王よりも位の高い称号として、皇帝という呼び名を発案しました。
世界初の皇帝で、自ら始皇帝と名乗ったと云います。
彼は、秦の国が永遠に続くものと考えて、子孫の名前も決め、自分を継ぐ二代目は二世皇帝、その次は三世皇帝として皇帝名にするように決めたと云います。
実際は三世皇帝で秦は滅んでしまうのですが。

 始皇帝、秦王政は統一を成し遂げた実力の在る人物でした。
仕事も精力的に行い、一日に公文書を30kg分読んで決済を続けたと伝えられますが、文書を重さで量る事自体凄いと思います。

 始皇帝に纏わる話は数多く存在し、先代の秦王の直系の子供ではないと云う、出生の秘密も言い伝えられており、有名事件が始皇帝暗殺未遂事件でした。
 
 秦による統一直前の事、秦の政王を殺せば滅亡を免れると考えたのが燕の太子。
太子は荊軻(けいか)に政の暗殺を依頼するのです。
戦国時代は能力主義の時代でしたから、暗殺技術も立派な能力として認められていました。
荊軻は職業としての殺し屋ですが、この時は流石に自分の死を覚悟して秦に向かいます。
手みやげがないと政に謁見できないので、秦からの亡命将軍の首と燕の領土の地図を持って行き、首尾よく政に謁見し、地図の中に隠し持っていた短刀で政に斬りかかったのです。

 ところが第一撃で刺し損なってしまった。

 謁見の間には多くの秦の役人や軍人が居並んでいるのですが、宮廷で武器を持つことは禁じられていたので誰も荊軻を止めることができません。
政ひとりだけが、剣を持っていますがその剣は特別製でやたらに長く、剣は鞘に入っているのです。
しかも突然襲われて焦ってしまい、尚更抜く事ができず、家臣団が見守る中、柱のあいだを逃げ回り、それを荊軻は追いかけます。

 ようやくひとりの家臣が「王よ、背負われよ!」と叫びました。
政は気づいて剣を背中に背負うと、鞘は床に転がってようやく剣が抜け、反撃を開始です。
家臣も後ろから荊軻に飛びついてようやく取り押さえる事が出来ました。

 始皇帝の陵墓を守る為に作られた兵馬俑坑(へいばようこう)の遺跡から、青銅の剣が出土しているのですがこれが長さ91.3cm、始皇帝の剣はこれよりも余程長かったと思われます。
その様な事件もありながらの統一でした。

秦の中国統一:続く・・・

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