歴史のお話その131:統一国家の成立②
<秦の中国統一その②>

◎長城の起源
秦の行った政策は、政治、金融、土木と多く在るのですが、一番有名な「万里の長城」から始めたいと思います。
或る天文学者が、宇宙空間から地球を観測した時、人間の眼に映る人工物体は、万里の長城だけであると言ったそうです。
万里の長城は中華人民共和国の北辺、モンゴル地域との間に築かれた城壁で、東は河北省の山海関から西は甘粛省嘉峪関に至る2750kmの総延長を誇り、この造営には凡そ100万人以上の人員が命を失い、巨額の費用に国は傾いたと云われています。
万里の長城が築かれたのは、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前403年)ですが、紀元前3世紀に秦の始皇帝が天下を統一すると供に、北辺に築かれていた土塁を繋ぎ合わせ、匈奴に対する防衛線を形作り、東は遼東(遼陽)から西は臨洮に至る長さ、万余里と云われ、現在の長城の場所よりも遥か北部に位置していました。
漢の時代、長城は敦煌の西、玉門関迄延長され、現在に位置迄南下したのは、6世紀頃、北斉、隋が契丹や突厥等の侵入を警戒して築いた為でした。
しかし、現在見られる様な堅固な城壁は、明代に成ってからの造作で、強力な蒙古の攻勢に対応する為、歴代の皇帝によって修築を繰り返した結果なのです。
◎長城の構造
長城の構造は、古くはその殆どが土塁であり、通常板築法を採用していますが、部分的には日干し煉瓦か石積みを施し、地形によっては、自然の断崖を利用し、要所には煉瓦を用いて補強する場合も在りました。
この地上に現存する人間の手になる物の内、実際の大きさ、積み重ねた土砂、煉瓦、石等の量、建設の為の労力等、何一つ長城に勝る物は存在しないと、思われます。
万里の長城に使用した資材で、高さ2.5m、厚さ1mの城壁を築くと地球の赤道面4万kmを1周する事が可能と云われています。
北京北西の八達嶺付近の長城は、高さ9m、幅上部4.5m底部9m在り、壁上は北側(満州・蒙古側)に向かって、銃眼が開き、下方からの攻撃を食い止める工夫が成されて、100m毎に望楼が設けられ、周囲の山の起伏に沿って延々と続いています。
城壁の3m幅の通路に成っていますが、車両も荷馬車も通る事はできず、僅かに動物と健脚を誇る人間だけがこの傾斜通路を通る事ができます。
通路は急傾斜の場所は、階段が造られ、川で遮られた場所のみ長城は途切れ、その場所は砦に成っています。
◎受難の民
万里の長城が最初に構築されたのは、春秋戦国時代ですが、その工事が本格化したのは、秦の始皇帝の時代からなのです。
当時、中国は既に高い文明を有し、繁華な都市は常に侵略者の対象に成り、その侵略者は主に、北方の蒙古や満州方面からの侵入でした。
その地には、女真族、匈奴等の遊牧民族が暮らし、実りの季節に成ると当時中国の最も豊穣な地域を略奪し、都市や其処に住む民を疲弊させたのです。
其処で秦の始皇帝は、北方からの異民族の侵入を防衛する目的で、万里の長城を築いたと云われています。
始皇帝は、あらゆる自然的、財政的、人的障害を乗り越えて城壁の建設に邁進しました。
遥か東部の海岸線から始まった巨大防塁は、西へ西へと進み、高山の頂きや深い谷を横切り、外敵の防御に最も都合の良い、最も険しい場所を選んで築城されて行きました。
伝説に因れば、始皇帝は翼を持った馬に跨り、馬の導くままに長城を築いたと云われています。
工事が進むに従い、多くの石工や労働者が必要に成り、止む無く秦の国軍に工事を従事させ、更には国土内の牢獄につながれている囚人達も動員して、石切り場、煉瓦工房、城壁の築城現場に派遣したと云われています。
当時、秦の国に如何程の人口が在ったのか定かでは有りませんが、人口の3人に1人の割合で建設に徴用されたものと思われます。
何万人と云う、過酷な労働者達は、十分な水も食料も無い不毛の山地や砂漠の中で、牛馬の様に使役され、その飲料水や食料は山頂や砂漠の工事現場迄、何里もの道のりを運ばざるを得ませんでした。
この様な過酷な状況の中で、膨大な人数の人間が死んで行き、その死者達は、長城の人柱として無慈悲に長城内に埋められて行き、その上に土が盛られ長城は築かれて行きました。
その為、万里の長城は世界で最も長い墓場であると云う人も居ますが、犠牲者の数は少なくとも100万人に達したと推定されています。
この様に多大な犠牲を払って造られた長城ですが、実際には異民族の侵入を阻止する事は不可能で、彼等は何も無かった時と同じ様に、何時でも自由に乗り越えたのでした。
秦の人々は「中国人には万里の長城に払った人命と財が重いので、之を乗り越える事は出来ないが、異民族には如何なる負担にも成らないので、容易く乗り越える事が出来る」と揶揄したのでした。
◎その後
紀元前218年、秦の始皇帝が万里の長城を築いて以来、1600年の間に北方の異民族は、しばしば長城を乗り越えて中国本土に侵入しました。
特に蒙古(後の元)の猛将チンギス・ハーンが13世紀初頭、長城以南の中国本土を支配したばかりではなく、遠くヨーロッパの東部迄侵攻し、当時のスラブ諸国を恐れさせた事は有名です。
その後、漢民族による中国支配が再び始まり、明の太祖が150年に渡る元朝の支配に終止符を打ち、14世紀の終わりに長城の再建を行いました。
従来から存在した長城を補強修理したばかりでは無く、首都北京の北方を強固に防衛する為、この付近を二重に整え、望楼を追加し、火器を備えさせ北方からの異民族の侵入を阻止しようとしました。
この時の工事でも10万人以上の犠牲者を生じたと云われています。
これ程の大事業でも、200年後にはその効力を失い、1644年ヌルハチに率いられた満州族は、長城を越え中国本土に再び侵攻し、全中国を支配して国号を清と改め、北京を首都としましたが、満州族に支配された中国本土に於いて、満州族を防御する長城は無用の長物なり、1912年に清朝が滅亡する300年間の間、荒廃するがままに放置されました。
現在、万里の長城は、北京周辺や敦煌近郊等極々一部が修復され、往時を再現していますが、航空機や長距離砲、更には大陸間弾道弾迄発達した現代の兵器に対して、長城は余りに無力な存在に成りました。
秦の中国統一:続く・・・

◎長城の起源
秦の行った政策は、政治、金融、土木と多く在るのですが、一番有名な「万里の長城」から始めたいと思います。
或る天文学者が、宇宙空間から地球を観測した時、人間の眼に映る人工物体は、万里の長城だけであると言ったそうです。
万里の長城は中華人民共和国の北辺、モンゴル地域との間に築かれた城壁で、東は河北省の山海関から西は甘粛省嘉峪関に至る2750kmの総延長を誇り、この造営には凡そ100万人以上の人員が命を失い、巨額の費用に国は傾いたと云われています。
万里の長城が築かれたのは、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前403年)ですが、紀元前3世紀に秦の始皇帝が天下を統一すると供に、北辺に築かれていた土塁を繋ぎ合わせ、匈奴に対する防衛線を形作り、東は遼東(遼陽)から西は臨洮に至る長さ、万余里と云われ、現在の長城の場所よりも遥か北部に位置していました。
漢の時代、長城は敦煌の西、玉門関迄延長され、現在に位置迄南下したのは、6世紀頃、北斉、隋が契丹や突厥等の侵入を警戒して築いた為でした。
しかし、現在見られる様な堅固な城壁は、明代に成ってからの造作で、強力な蒙古の攻勢に対応する為、歴代の皇帝によって修築を繰り返した結果なのです。
◎長城の構造
長城の構造は、古くはその殆どが土塁であり、通常板築法を採用していますが、部分的には日干し煉瓦か石積みを施し、地形によっては、自然の断崖を利用し、要所には煉瓦を用いて補強する場合も在りました。
この地上に現存する人間の手になる物の内、実際の大きさ、積み重ねた土砂、煉瓦、石等の量、建設の為の労力等、何一つ長城に勝る物は存在しないと、思われます。
万里の長城に使用した資材で、高さ2.5m、厚さ1mの城壁を築くと地球の赤道面4万kmを1周する事が可能と云われています。
北京北西の八達嶺付近の長城は、高さ9m、幅上部4.5m底部9m在り、壁上は北側(満州・蒙古側)に向かって、銃眼が開き、下方からの攻撃を食い止める工夫が成されて、100m毎に望楼が設けられ、周囲の山の起伏に沿って延々と続いています。
城壁の3m幅の通路に成っていますが、車両も荷馬車も通る事はできず、僅かに動物と健脚を誇る人間だけがこの傾斜通路を通る事ができます。
通路は急傾斜の場所は、階段が造られ、川で遮られた場所のみ長城は途切れ、その場所は砦に成っています。
◎受難の民
万里の長城が最初に構築されたのは、春秋戦国時代ですが、その工事が本格化したのは、秦の始皇帝の時代からなのです。
当時、中国は既に高い文明を有し、繁華な都市は常に侵略者の対象に成り、その侵略者は主に、北方の蒙古や満州方面からの侵入でした。
その地には、女真族、匈奴等の遊牧民族が暮らし、実りの季節に成ると当時中国の最も豊穣な地域を略奪し、都市や其処に住む民を疲弊させたのです。
其処で秦の始皇帝は、北方からの異民族の侵入を防衛する目的で、万里の長城を築いたと云われています。
始皇帝は、あらゆる自然的、財政的、人的障害を乗り越えて城壁の建設に邁進しました。
遥か東部の海岸線から始まった巨大防塁は、西へ西へと進み、高山の頂きや深い谷を横切り、外敵の防御に最も都合の良い、最も険しい場所を選んで築城されて行きました。
伝説に因れば、始皇帝は翼を持った馬に跨り、馬の導くままに長城を築いたと云われています。
工事が進むに従い、多くの石工や労働者が必要に成り、止む無く秦の国軍に工事を従事させ、更には国土内の牢獄につながれている囚人達も動員して、石切り場、煉瓦工房、城壁の築城現場に派遣したと云われています。
当時、秦の国に如何程の人口が在ったのか定かでは有りませんが、人口の3人に1人の割合で建設に徴用されたものと思われます。
何万人と云う、過酷な労働者達は、十分な水も食料も無い不毛の山地や砂漠の中で、牛馬の様に使役され、その飲料水や食料は山頂や砂漠の工事現場迄、何里もの道のりを運ばざるを得ませんでした。
この様な過酷な状況の中で、膨大な人数の人間が死んで行き、その死者達は、長城の人柱として無慈悲に長城内に埋められて行き、その上に土が盛られ長城は築かれて行きました。
その為、万里の長城は世界で最も長い墓場であると云う人も居ますが、犠牲者の数は少なくとも100万人に達したと推定されています。
この様に多大な犠牲を払って造られた長城ですが、実際には異民族の侵入を阻止する事は不可能で、彼等は何も無かった時と同じ様に、何時でも自由に乗り越えたのでした。
秦の人々は「中国人には万里の長城に払った人命と財が重いので、之を乗り越える事は出来ないが、異民族には如何なる負担にも成らないので、容易く乗り越える事が出来る」と揶揄したのでした。
◎その後
紀元前218年、秦の始皇帝が万里の長城を築いて以来、1600年の間に北方の異民族は、しばしば長城を乗り越えて中国本土に侵入しました。
特に蒙古(後の元)の猛将チンギス・ハーンが13世紀初頭、長城以南の中国本土を支配したばかりではなく、遠くヨーロッパの東部迄侵攻し、当時のスラブ諸国を恐れさせた事は有名です。
その後、漢民族による中国支配が再び始まり、明の太祖が150年に渡る元朝の支配に終止符を打ち、14世紀の終わりに長城の再建を行いました。
従来から存在した長城を補強修理したばかりでは無く、首都北京の北方を強固に防衛する為、この付近を二重に整え、望楼を追加し、火器を備えさせ北方からの異民族の侵入を阻止しようとしました。
この時の工事でも10万人以上の犠牲者を生じたと云われています。
これ程の大事業でも、200年後にはその効力を失い、1644年ヌルハチに率いられた満州族は、長城を越え中国本土に再び侵攻し、全中国を支配して国号を清と改め、北京を首都としましたが、満州族に支配された中国本土に於いて、満州族を防御する長城は無用の長物なり、1912年に清朝が滅亡する300年間の間、荒廃するがままに放置されました。
現在、万里の長城は、北京周辺や敦煌近郊等極々一部が修復され、往時を再現していますが、航空機や長距離砲、更には大陸間弾道弾迄発達した現代の兵器に対して、長城は余りに無力な存在に成りました。
秦の中国統一:続く・・・
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