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2013/06/05

歴史のお話その132:統一国家の成立③

<秦の中国統一その③>

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◎秦の政策

1)郡県制の採用
 
 周時代には諸侯・卿・大夫が各自の邑を自由に支配していましたが、この周の封建制と対称的方法が郡県制で、秦は全国に郡、その下に県の行政組織を置いて、中央政府から官僚を派遣し中央集権的な一元支配を行い、中央集権的専制国家の誕生と成りました。
 
 基本的に20世紀初頭、清朝が滅びる迄中国の政治制度は、基本的に郡県制を崩すこと無く、その様な意味でも、郡県制の採用は大きな制度の改革なのです。
因みに、日本では県の下に郡が置かれていますが、中国では逆で、郡の方が県よりも大きな行政単位です。


2)文字統一

 戦国時代には各国で文字の字体が異なっていましたが、これを統一し、秦の字体は篆(てん)書と云い、やがてこれから楷書、草書が発展して行きます。

3)通貨統一

 秦の貨幣は穴のあいた環銭、特にこの時の環銭を半両銭と呼びます。

4)度量衡統一

 度は長さ、量は体積、衡は重さの計測単位ですが、この単位を統一し単位が地域毎に違う事による、行政上の混乱防止しました。

5)車軌(軌間)統一

 車軌とは馬車の車輪と車輪の間の幅で、現在でも鉄道線路の幅を示す、軌間に当たる言葉です。
当時舗装道路等一切在りませんから、馬車が走れば地面はえぐれ、その部分がレールの様になっていきます。
そこを車軌が違う馬車が走ると、車体が傾むいて思うように走れません。
その為、戦国の各国はわざと自国の車軌を他国と違うようにしました。
そうすれば敵国の戦車がやって来ても攻め難いのですが、天下統一後は不便この上も無いことでした。

 現在の鉄道も同様で、狭軌、標準軌、広軌に分類されますが、ヨーロッパではフランス(線路幅1435mm)に国境を接する、スペイン、ポルトガルが広軌(1668mm)を採用しています。
此れは、ナポレオンの時代に、鉄道で一気に兵員や物資を送り込め無い様にとの考えが在った為です。

6)思想統一

 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を実行し、大臣李斯の献策で秦の政治に批判的な学問を弾圧しました。
医学、農業、占い意外の学問を許さず、それ等の本を集めて燃やすことが焚書です。
戦国時代の学問の多くが失われ、現在では断片しか残っていない学問も在り、大変残念なことです。

 焚書に関しては、世界史的観点からアレクサンドリア図書館が5世紀にキリスト教徒により破壊された事件、マヤの古文書が、司教ディエゴ・デ・ランダによる焼却(1562年)、ナチス・ドイツによる焚書が上げられます。

 坑儒は460人余りの儒者を生き埋めにして殺した事件で、始皇帝の個人的な怒りから起こった事件なのですが、結果としては学問の弾圧になりました。

7)外征

 秦は北方の遊牧国家である匈奴に対して討伐軍を派遣し、又、南方、ベトナム北部方面にも領土を拡大して、南海郡等三郡を置きました。

8)土木工事

 万里の長城の建設は先に紹介しました。

 宮殿の造営、阿房宮と呼ばれる壮大な宮殿で、一万人が座ることのできる広間が在り、その下に10メートルの旗指物を持った軍隊が集結できたと云います。

 陵の造営、驪山(りざん)陵と云いますが、地下に宮殿を造営し、当時の人々は黄泉の国でも現世と同じような暮らしをすると考えていましたから、現世と同様なものを構築しました。

 これに付随して、地下の宮殿を守る為に軍隊を作ったのですが、これが有名な兵馬俑坑です。
始皇帝陵の東3kmの所に人形の軍隊が発掘され、土台を含めると2mの高さの人形で、現在迄に約三千体発掘されていますが、その整列した姿から、当時の軍隊編成が研究されています。

秦の中国統一:続く・・・


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