歴史のお話その133:統一国家の成立④
<秦の中国統一その④>

◎天下統一と不老長寿
兵馬俑の兵士人形は一つ一つ皆表情や髪型が違います。
当時の人達は出身部族によって髪型が違っていましたので、兵士俑を調べる事によって、様々な部族から軍が編成されていることが解明されました。
秦は辺境に位置していた関係で、周辺の民族も多く加わっていたと推定されますが、此れも秦軍の強さの根源かも知れません。
兵馬俑坑は未だその総てが発掘されておらず、掘れば次々と出土してきますが、掘り出しても保存処理が追いつかない為、埋めたままにしていると研究書に書かれていました。
因みに、一国の軍隊が多民族で編成されていた国に、11世紀に河西通廊一帯を支配した、朱元璋率いる、西夏が在ります。
西夏軍は強力な軍隊でしたが、その構成は、ウイグル族、トバン族、漢民族等で編成され、それぞれに西夏文字、西夏語の出来る通訳が所属していました。
長城、兵馬俑、是等の事業は徹底した人海戦術で行われ、全国から人民を動員し、始皇帝陵だけでも70万人が動員されたと云われますが、戦国時代が終結し平和が訪れた筈なのに庶民にとっては、始皇帝の大動員は迷惑千万な話だったに違いありません。
何処かの国の将軍様の様ですが、始皇帝は全国に自分専用の道路を作らせました。
幅50歩(約70m)、更にその中央に松の木で仕切られた皇帝の専用道路「馳道」が作られ、始皇帝の馬車しか走ることが許されず、その他の貴族、官僚、軍隊はその縁を同行しました。
始皇帝はこの道路で全国を都合4回にわたって、行脚したと云いますが、その目的は自分の顔を民衆に知らせる為でした。
そもそも、皇帝の位が、出来たばかりで一般民衆には、皇帝の意味すら理解できなかったと思われ、始皇帝の偉大さも理解できません。
一般民衆の脳裏にしっかりと刻み付ける事が出来る、絢爛豪華な行列を連ねて諸国を行脚し、皇帝のその偉さを示そうと考えての事でしたが、民衆はこの道路工事にも徴用され、更には始皇帝が通過するときには食糧等を徴発されて、散々だったと思われます。
始皇帝は「馳道」を利用して、領土内を巡り各地に自分の功績を刻んだ石碑を立てさせ、泰山で封禅の儀式を挙行します。
封禅とは天子の位に就いた事を天地の神に報告する重要な儀式なのです。
天下を統一した始皇帝ですが、一つだけどうしても手に入れたいものが残っていました。
不老長寿、不死を手に入れたい始皇帝に、方士という魔術師、呪術士の様な人種が不老長寿の技法を伝授した様です。
日本との関係で有名な徐福は、東の海に蓬莱という島が在り、其処に不老長寿の秘薬が在ると始皇帝に教えたのですが、始皇帝は徐福にその薬を取りに行かせたと記録されています。
徐福は東の海に出かけたのですが、その後消息は途絶え、記録さえも残っていません。
紀伊半島の熊野地方にはこの徐福が来日した伝説が在り、新宮市には徐福の墓まで在るとの事ですが、南は鹿児島県から北は青森県迄、徐福の伝説は日本全国に広まっています。
始皇帝に近づいた方士の中には、水銀を不老長寿の薬と教えた者も存在しました。
水銀中毒は、現在では公害病の一つですが、中国では歴代皇帝の罹る病気の一つでした。
水銀を不老長寿の秘薬と信じて、服用したけ結果ですが、当時は水銀の持つ毒性に関する知識は皆無でした。
水銀服用が原因か否かは別にして、終に始皇帝は紀元前210年、崩御しました。
秦の中国統一:続く・・・

◎天下統一と不老長寿
兵馬俑の兵士人形は一つ一つ皆表情や髪型が違います。
当時の人達は出身部族によって髪型が違っていましたので、兵士俑を調べる事によって、様々な部族から軍が編成されていることが解明されました。
秦は辺境に位置していた関係で、周辺の民族も多く加わっていたと推定されますが、此れも秦軍の強さの根源かも知れません。
兵馬俑坑は未だその総てが発掘されておらず、掘れば次々と出土してきますが、掘り出しても保存処理が追いつかない為、埋めたままにしていると研究書に書かれていました。
因みに、一国の軍隊が多民族で編成されていた国に、11世紀に河西通廊一帯を支配した、朱元璋率いる、西夏が在ります。
西夏軍は強力な軍隊でしたが、その構成は、ウイグル族、トバン族、漢民族等で編成され、それぞれに西夏文字、西夏語の出来る通訳が所属していました。
長城、兵馬俑、是等の事業は徹底した人海戦術で行われ、全国から人民を動員し、始皇帝陵だけでも70万人が動員されたと云われますが、戦国時代が終結し平和が訪れた筈なのに庶民にとっては、始皇帝の大動員は迷惑千万な話だったに違いありません。
何処かの国の将軍様の様ですが、始皇帝は全国に自分専用の道路を作らせました。
幅50歩(約70m)、更にその中央に松の木で仕切られた皇帝の専用道路「馳道」が作られ、始皇帝の馬車しか走ることが許されず、その他の貴族、官僚、軍隊はその縁を同行しました。
始皇帝はこの道路で全国を都合4回にわたって、行脚したと云いますが、その目的は自分の顔を民衆に知らせる為でした。
そもそも、皇帝の位が、出来たばかりで一般民衆には、皇帝の意味すら理解できなかったと思われ、始皇帝の偉大さも理解できません。
一般民衆の脳裏にしっかりと刻み付ける事が出来る、絢爛豪華な行列を連ねて諸国を行脚し、皇帝のその偉さを示そうと考えての事でしたが、民衆はこの道路工事にも徴用され、更には始皇帝が通過するときには食糧等を徴発されて、散々だったと思われます。
始皇帝は「馳道」を利用して、領土内を巡り各地に自分の功績を刻んだ石碑を立てさせ、泰山で封禅の儀式を挙行します。
封禅とは天子の位に就いた事を天地の神に報告する重要な儀式なのです。
天下を統一した始皇帝ですが、一つだけどうしても手に入れたいものが残っていました。
不老長寿、不死を手に入れたい始皇帝に、方士という魔術師、呪術士の様な人種が不老長寿の技法を伝授した様です。
日本との関係で有名な徐福は、東の海に蓬莱という島が在り、其処に不老長寿の秘薬が在ると始皇帝に教えたのですが、始皇帝は徐福にその薬を取りに行かせたと記録されています。
徐福は東の海に出かけたのですが、その後消息は途絶え、記録さえも残っていません。
紀伊半島の熊野地方にはこの徐福が来日した伝説が在り、新宮市には徐福の墓まで在るとの事ですが、南は鹿児島県から北は青森県迄、徐福の伝説は日本全国に広まっています。
始皇帝に近づいた方士の中には、水銀を不老長寿の薬と教えた者も存在しました。
水銀中毒は、現在では公害病の一つですが、中国では歴代皇帝の罹る病気の一つでした。
水銀を不老長寿の秘薬と信じて、服用したけ結果ですが、当時は水銀の持つ毒性に関する知識は皆無でした。
水銀服用が原因か否かは別にして、終に始皇帝は紀元前210年、崩御しました。
秦の中国統一:続く・・・
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