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2013/06/08

歴史のお話その134:統一国家の成立⑤

<秦の中国統一その⑤>

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始皇帝用馬車の兵馬俑(中国・西安市兵馬俑博物館)

◎秦帝国の衰退

 始皇帝の崩御は、国内行脚の途中でした。
崩御の時に皇帝の側に仕えていたのが宦官の趙高です。

 皇帝の公務は官僚が補佐を行いますが、私的な時間に皇帝に接する人物が宦官です。
宮廷内部での身分は低く、皇帝の私的奴隷に近い存在なのですが、常に皇帝の傍に居り、妃達に近づく機会も多々在ります。

 宦官制度は、中国最後の清朝が滅亡する直前、宣統帝による宮廷追放迄続きました。
最後の宦官は20世紀の終わり頃迄、存命だったとの事です。
戦争捕虜や奴隷、犯罪者を手術して宦官にする場合や、貧しい者が自ら宦官を志望し、又親に手術をされて宮廷に送られる等、宦官には種々の理由があるようです。

 歴史上、その死を隠した若しくは隠された君主は、日本では武田信玄、中国では諸葛孔明、チンギス・ハーン、ヨーロッパではレコンキスタの英雄、ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールに見ることができます。

 繰り返しになりますが、この宦官は身分的には低く、役人でも在りませんが、皇帝の身近に接触する時間が長い為、皇帝に成り代わって権力を振るう者も歴史上には存在します。

 趙高等数人の宦官だけが、始皇帝専用の馬車への出入りを許されており、始皇帝の崩御は趙高しか知りません。
彼はこの機会を利用して権力を握ろうと画策したのです。

 趙高は、始皇帝の遺言を盗み見る事ができ、遺言には次期皇帝は長男に譲ると成っていました。
長男はこの時、匈奴討伐で北方に遠征中で不在ですが、始皇帝には数人の息子が居り、末の胡亥(こがい)だけが、始皇帝と共に行脚に従っていました。
趙高は胡亥に密かに近づき始皇帝の死を告げます。
「陛下の死を知っているのは私と貴方様だけです。いまなら遺言を書き替えて胡亥様が次に皇帝になることができます云々。」と持ちかけます。
胡亥も皇帝の位に就けるのならばと、即位後の趙高の地位と権力を保証したのでしょう。
もうひとり大臣の李斯もこの仲間に加わった。

 秘密にしたのは陰謀だけではなく、旅行中に死んだことを公にすれば各地で反乱が起きることを心配したということもあったと思われます。
一部の人間にしか始皇帝の死は伝えられず、皇帝の大行列は咸陽の街に向かって旅を続け、その間に趙高や李斯は胡亥の即位準備の為の策を練っていたと思います。

 始皇帝が崩御した場所は、現在の山東省、時期は7月、当然ながら暑い盛りなので、皇帝の遺骸は腐り始め、ついには異様な臭いが始皇帝の馬車から漂い始め、何も知らされていない大臣や将軍達が不審に思い始めると、趙高は干し魚を大量に買い集めて始皇帝の馬車の左右につけて併走させ、魚の臭いで死臭を誤魔化したと云います。
大臣達が趙高に理由を尋ねると「陛下のご命令で、わたくしにも存じかねるのでございます。」と答え、当時始皇帝の命だと言えば、誰もそれ以上は追求できません。

 大行列は咸陽に戻り、趙高は手筈通り始皇帝の死と胡亥の二世皇帝としての即位を告示します。
長男には匈奴との戦いで戦果を挙げていないことを理由に自害を命じる皇帝の偽の手紙を送ります。

 即位した二世皇帝胡亥はやがて宦官の傀儡と成り果てました。
宦官は普段、人間以下の存在として軽蔑されている為、権力を握ると放漫に成り、政治に対して責任感を持つことは殆ど無く、蓄財と虚栄心を追求すます。
子孫も無く、家族の心配も何も在りませんから。

趙高はやがて自分自身が皇帝になる野心を持ったようです。
宮廷で自分の影響力が役人達に及んでいるか試す、時を設けます。

 ある時二世皇帝の前で百官が居並ぶ前に、趙高は鹿を連れてきて「馬でございます。」といって献上した。
二世皇帝は「趙高、何を言っているのか。角が生えている、鹿ではないか!」と反論しました。
趙高は居並ぶ百官を見回と、趙高に謙る役人達は口を揃えて、「陛下こそ、何をおっしゃいます。馬ではありませんか。」
二世皇帝は愕然とし、自分の皇帝の地位が実は飾りだけの存在に気づく事に成りました。
そしてこれが「馬鹿」の語源だと云われています。

 実はこの頃になると、帝国の領内各地で反乱が起き始めますが、宮廷内の権力闘争で対策が打ち出すことが出来ず、本当の意味で馬鹿なことばかりやっているあいだに、反乱は秦を滅ぼす程大きくなっていきました。

秦の中国統一:終わり・・・

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コメント

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こんばんは

馬鹿の語源に見る背景。
皇帝もかわいそうなものです。