2013/06/10

歴史のお話その135:漢①

<漢その①>

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◎陳勝・呉広の乱

 秦の滅亡する発端となった反乱が陳勝・呉公の乱でした。

☆陳勝・呉広のお話

 陳勝は楚の地方の農民で雇農、自分の土地を持たずに、その日その日を土地を持った地主に雇われ仕事で、何とか生活を維持していた人物です。
その陳勝の里に秦の政府から辺境警備の為、徴発令が発布されます。
時は始皇帝崩御の翌年紀元前209年のことでした。

 万里の長城に近い北方の漁陽に、警備の兵士として徴兵された、約900人の農民達が役人の先導の下出発しました。
陳勝の里から漁陽迄は約1000キロ(東京から北九州市迄)の距離が在ります。

 ところが途中で大雨が降り、川が氾濫して先に進めなく成りました。
秦の徴兵命令には、期限が定められており、その日迄に漁陽に到着しなければ、処刑されることに成っていますから、此処は何が何でも現地迄に向かわなければ成りません。

 しかしながら、何日待っても水は引かず、自ずと猶予日数は減り、漁陽に到着しなければ成らない期限が近づいて来ます。
このままでは、洪水が引いて出発しても到底期限に間に合わず、其れでは故郷に帰っても秦の役人に咎められて処刑され、逃亡しても、何れ命を失う運命に変わりは在りません。
この様な当に四面楚歌の状況の下、徴兵された農民達は、洪水が収まる時をじっと待っているしか在りませんでした。

 そこで陳勝は、このまま期限に遅れて処刑される位なら、運を天に任せて秦の政府に蜂起してやろうと考え、同じく徴兵されてきていた呉広も陳勝に賛同したのです。
しかし、他の農民達は秦に反抗する等は思いもよらず、始皇帝は崩御しても、まだまだ秦は恐ろしい存在でした。

 そこで、呉広は種々細工を行い、農民の気持ちを反乱にまとめていきました。
大きな魚を捕らえて、その腹の中に布きれを入れるのですが、布には「陳勝が王になる」と書いておき、炊事当番の者にその魚を渡すのです。
炊事当番が魚を捌くと「陳勝が王になる」と書かれた布が現れる仕掛けです。

 それから呉広は毎晩露営地の裏山に登りました。
山には何かを祀る洞が在り、その洞の裏から狐の声を真似て「大楚興、陳勝王」と叫ぶのです。
「秦に滅ぼされた楚が復興し、陳勝が王になる」という意味のお告げを行う訳です。
夜な夜な変な鳴き声がするなと、農民達が耳を澄まして聞いていると、狐の声が神のお告げに聞こえてくると云う仕掛けです。

 極めて単純かつ素朴な方法ですが、純朴な農民達には効果絶大で、この様な事が毎日の様に続くので、陳勝に対して全員が不思議な気持ちをいだきはじめた処で、彼は農民達に対して決起を呼びかけたのです。

 「洪水が引いてこのまま進んでも死が待つのみ、帰っても死しかない、どうせ死ぬ運命に在るのなら一旗揚げてやろう!」
臆病な農民達を立ち上がらせる為に、自分達を引率している秦の役人を殺し、更に

 「王侯将相いずくんぞ種あらんや」
意味は(王、貴族、将軍、大臣であろうと我々農民と何処に違いが在るのか)と云う有名な言葉です。

 強烈な平等感、反骨精神ですが、この言葉が2000年以上前に叫ばれています。
身分も何もない貧しい農民が、歴史の舞台に登場する、例えるなら日本では、豊臣秀吉でしょうか?
いづれにしても陳勝の1700年も後の話です。

 陳勝・呉広は、旧六国の有力者に反乱を呼びかける文書を送り、これに応えて各地で反乱の狼煙が上がり
秦を恐れてそれまでは誰も反乱を企てる者は居ませんでしたが、最初に反乱を起こした陳勝達は本当に勇気があったと思うのです。

 陳勝・呉広の反乱軍は秦の守備軍を撃破し、瞬く間に数万の軍勢に増えていきました。
しかし、農民中心の集団で在って、戦争の為の常備軍では無く、やがて咸陽から秦の精鋭部隊が進軍して来るといとも簡単に鎮圧されてしまいました。
陳勝も呉広も戦死し、しかも彼等が反乱軍を率いて頭角を現したのは半年間だけでしたが、彼等は中国最初の農民反乱の指導者として歴史に名前を刻みました。

 そして、陳勝・呉広の反乱は鎮圧されましたが、彼等の呼びかけに応えた反乱軍が全国に広がっていたのです。

漢:続く・・・

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