2013/06/12

歴史のお話その136:漢②

<漢その②>

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◎漢の成立以前の混乱

 全国に広がった反乱軍の指導者になったのが項羽(紀元前232年~紀元前202年)でした。

 項羽は楚の名門将軍家の出身で、幼い時に父親と死別し叔父に育てられるのですが、この叔父に当たる人物も相当の軍略家でした。
幼い項羽に英才教育を施します。
最初、項羽に剣術を教えるのですが、項羽はすぐに飽きてしまって熱心に剣を習おうとしません。
叔父が咎めると、項羽は「剣の稽古をしても、倒せる相手はひとりだけだ。其れではつまらない。」と答えたので、今度は兵法を教えた処、今度は熱心に学んだと云います。
 
 項羽は大男で、その身長は2メートル近く、この体格は武人としては最適でした。
当時の戦争は、刀を持った生身の人間が死闘を繰り広げる訳ですから、体の大きな体格の良い人間は絶対強いのです。
 
項羽が馬にまたがって敵に向かっただけで、敵兵は戦意喪失です。
この様に強い大将に従えば、まず負け戦に成る事は無く、大将としての条件を総て備えている項羽が反乱軍の指導者になっていったのも納得できますね。

 反乱集団の指導者としてもうひとり有名な人物が劉邦(?~紀元前195年)です。
この人物も楚の出身で、農家に生まれますが、どうも農業には向いていなかった様です。面倒見が良く、元気の良い若い衆には人気は在るのですが、怒らせたら少々怖い村の顔役、今で言えば一種の悪(ワル)でした。

 当時は、劉邦の様に共同体の秩序に合わずその力を持て余していた人の事を「侠(きょう)」と云い、始皇帝を暗殺に加わった荊軻も「侠」、陳勝も「侠」といえるかも知れません。

 戦国時代が終結して、未だ10年余り、「侠」の感覚を持った人物は国中に沢山居たのです。
家柄とか血筋に関係なく自分の能力、才覚で一旗揚げてやろうという人々で、戦国時代の遺風かも知れません。
劉邦はその様な人々を自分の周りに集め、次第に大きな勢力を形成して行きました。

 劉邦は中年に達した頃、地元で秦の下級役人の仕事に就きました。
亭長と云い、現在なら村の駐在に当たる役職なのですが、一応秦の役人なので、その劉邦の所に政府から命令が来ます。
その指示は、里の若者を阿房宮の工事の為に都まで引率してこい、とのものでした。

 命令に従い、劉邦は若者達を徴発して都に向かって旅に出るのですが、宮殿の工事は大変厳しい作業で在る事は、周知の事実なので、奴隷の様に使役されて、命を落とす者も多数に及ぶ事は知れ渡っています。
当然ながら、旅の途中で若者達は次々に脱走し、夜が明ける度に人が減り、都に到着するより以前には、半分位の人員に成っていました。

 半分しか人夫を連れていけなければ、引率者である劉邦の責任になるわけです。
若者達は宮殿工事で命を落とすかもしれず、自分も脱走の責任を問われて処刑されるかも知れません。
ここに来て劉邦は開き直ったのです!
ここまで一緒に来た者達に逃亡を促し、劉備自身も秦の下級役人を辞め、若者達と一緒に逃亡を図ります。

 皆を逃がし、劉邦も逃亡しましたが、郷里に逃げ帰る事は、捉えられに行く様なものなので、郷里の近くで逃亡生活を続けたのです。

 先の陳勝・呉広の乱は、秦政府の無理な徴兵が原因でした。
劉邦も同じような経験をしており、考えてみれば、秦の過酷な使役に耐えかねて逃亡生活を送り爆発寸前まで追いつめられていた民衆が、全国に無数いたに違い無く、陳勝・呉広の乱が起こると一気に全国へ波及しました。

漢:続く・・・

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