2013/06/13

歴史のお話その137:漢③

<漢その③>

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◎漢の成立以前の混乱その②

 劉邦が逃亡生活の最中、陳勝・呉広の反乱が起こり、国内が騒然と成って来ました。
劉邦も自分の里に帰って「侠」の連中を集めて一旗揚げ、今回は地方役人も大混乱の中で自分達を守る為に劉邦を応援します。

 劉邦の反乱は、陳勝・呉広不在の後、各地の反乱集団を束ねはじめた項羽に合流し、項羽集団は各地の反乱集団が結集してどんどん大きくなって行きました。
やがて、このあと項羽と劉邦は好敵手となって秦滅亡後の指導権を争うのですが、この二人は実に対称的です。

 先にも書きました通り、項羽は名門貴族の武人、劉邦は田舎の農民出身、項羽は二十歳位、劉邦は40歳位なので、当時の感覚では40歳は相当の年齢と思って良いでしょう。
項羽は自分の才能に自信がありすぎて他人を軽んじるところがありますが、劉邦は自分の配下のものには面倒見が良いのは、「侠」の感覚でしょうか。

 始皇帝が全国を行脚したときに、項羽も劉邦もその行列と始皇帝を垣間見て、その時の項羽の言葉は、「いつか取って代わってやる」。
取って代わると云う表現は項羽がはじめて使い、一方劉邦の言葉は「男と生まれたからには、あの様に成ってみたいものだ」でした。

 反乱軍は秦の都、咸陽に進軍します。
主力は項羽が率いてまっすぐ西に向かい、別働隊を劉邦が率いて南回りで咸陽に進撃します。
先に咸陽を占領した者が、その地域の王になる約束があったので、当に競争です。
軍隊としては項羽軍が強力なのですが、秦の精鋭部隊がもろに進軍を阻んで来るので、前進に手間取り、その間に劉邦軍は殆ど抵抗も無く、咸陽の都に突入し占領に成功してしまいます。

 秦では二世皇帝が趙高に殺され、その趙高もまた殺されて、三世皇帝が即位して一月ばかり経ったところなので、秦の政情は混乱を極めていました。
三世皇帝は自分の首に縄を掛けて劉邦のもとに出向いてきましたが、この行為は全面降伏の意味で在り、ここに終に秦は滅亡したのでした。

 劉邦は咸陽で秦の宮殿に封印し、宝物を略奪させず、三世皇帝など秦の皇帝一族を殺さずに保護し、更に「法三章」を発布しました。
その内容は、殺すな、傷つけるな、盗むな、と云う非常に単純な法律で、劉邦は秦の複雑な法律を全廃してこの三条だけにしたのですが、法家思想による厳しい支配で苦しんでいた人々は大歓迎でした。

 劉邦の人望は上がる一方の処へ、遅れて項羽の本隊が咸陽にやってきました。
総大将項羽は咸陽に入ると三世皇帝等、秦の皇族を皆殺しにして、阿房宮を略奪した後、火を放ち、劉邦の総ての処置を停止してしまいます。
劉邦の評判が良かった一方で、項羽は人望を失って行きました。

 秦滅亡後、項羽には咸陽で皇帝に即位し、秦の後を継ぐ様に進言した者がいました。
しかし、項羽はこれを断り、楚の国に帰って西楚の覇王と称し、更に秦を倒すことに功績のあった反乱集団の指導者達を王として各地に封じました。
結果的に、項羽は戦国時代の体制への復帰を目指したと考えられ、始皇帝が構築した中央集権的な考え方と春秋戦国時代の地方分権的な考え方がこの当時も存在しており、項羽は後者を代表していた保守的な人物と思われます。

漢:続く・・・

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