2013/06/15

歴史のお話その138:漢④

<漢その④>

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◎楚漢の興亡

 劉邦は、その項羽によって王に命じられました。
漢王と成り、咸陽の土地ではなく遠く四川省の山奥(僻地)の王とされたのは、項羽に警戒されたからです。
当然劉邦は不満増大、項羽の決めた国割りを無視して実力で領土拡大を始め、全国制覇を目指す事に成りますが、劉邦が始皇帝の構想を受け継ぐ者だったと言えます。

 このあと5年間に及ぶ、項羽と劉邦の戦いが起こり、項羽の国が楚、劉邦の国が漢なので、之を楚漢の興亡と呼びます。

 軍事力は圧倒的に項羽が強く、劉邦軍は連敗でした。
しかしながら、負ければ負ける程、劉邦の勢力は強大になり、勝てば勝つ程、項羽軍は弱体化して行きます。

 項羽は自分の功績を誇りすぎ。部下の将軍達にとっては仕え難い処が在り、例えば項羽は合戦に勝利しても自分が強いからと考え、部下への恩賞が少ないのです。

 一方劉邦は、昔から部下を大事にする為、人望は高かったのです。
劉邦は万能の人物では無く、特技も無く、歳も高く、戦闘行動も弱いのですが、人を使う事が上手でした。
それぞれに活躍の場を与えて恩賞を出し、咸陽を占領した時の態度でその寛容さは証明されています。
結果として項羽の武将達は、次々に部下と部隊を率いて劉邦軍に寝返っていきました 。

 劉邦と項羽の最後の決戦が垓下(がいか)の戦い(紀元前202年)です。
垓下の城に包囲された項羽の軍勢は10万、取り囲む劉邦の軍隊は30万、夜になると包囲軍の兵士が歌う歌が項羽の陣地に聞こえて来ます。
この歌が楚の歌で、楚は項羽の出身地、楚の歌を歌うのは楚の兵士なのです。
つまり項羽の兵士達が、今は皆劉邦軍に流れてしまった結果でした。
之が「四面楚歌」です。

 項羽は終に己の運命を悟ります。
もう勝利の見込みは無く、最後まで付き従っていた武将達と別れの宴を開き、その時に項羽が詠った詩が伝えられています。

 「力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う、時に利あらず、騅(すい)逝(ゆ)かず、騅の逝かざるは、奈何(いかん)かすべき、ああ虞や、虞や、なんじを奈何せん。」

 自分の力は山を大地から引き抜き、気概は世を覆うほどなのに、時が味方をしてくれず、もはや愛馬の騅も走ろうとしない騅が走ってくれないのは、どうすればよいのか、ああ虞や、虞や、おまえをどうしてくれよう。

 皆死を覚悟して涙の宴会となり、虞は項羽の愛人、虞美人です。
ずっと項羽に付き従ってきたのですが、かれの歌を聞いて自分が足手まといであると知り、自ら命を絶ったと云います。
彼女の血を吸った地面から生えた花が、虞美人草だと云われています。

 このあと項羽軍は劉邦軍の囲みを破って、南方、楚の国に向けて脱出を敢行します。
なんとか劉邦軍の追撃を振り切り烏江(うこう)迄逃げ伸びますが、この時は従う者は僅か数騎に減っています。
長江を渡らなければいけないので船頭を捜し、見つけてきた船頭さんが項羽を見て言いました。

「大王よ、楚の国は広いし人口も多い。今は負けてもまた再び王となってください。」

 優しい言葉を貰って項羽は、自分の以前を反省し、何千人という楚の若者を兵士として引きつれて戦ってきたものの、皆戦に倒れさせ、何故自分だけおめおめと帰って彼等の父兄に会えるだろうかと考えたのでした。

 項羽は死に場所を求めて引き返し、追ってきた劉邦軍と最後の戦に臨みます。
乱戦の中で項羽は敵兵に嘗ての自分の部下を見つけ、彼の手柄に成る様にと、自害したと云います。

 一代の英雄項羽は死に、好敵手を倒して劉邦が天下を統一します。
漢帝国が成立し、劉邦は後に漢の高祖と呼ばれる事に成りました。

漢:続く・・・

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コメント

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こんばんは

有名な古事。
どこまでが事実かは分かりませんが、語り継がれるにふさわしい話です。