2013/06/17

歴史のお話その139:漢⑤

<前漢その①>

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◎漢の政治

 秦にかわって劉邦が建国した王朝が漢、都は長安、漢は前後半に分かれますので通常は前漢(紀元前202年~紀元後8年)と呼びます。

※漢初期の政治

1)秦の過酷な支配を緩和する。

2)統治形態としての郡県制を廃し、変わって郡国制を実施。

 この政策は郡県制と封建制を併用した形で、劉邦は多くの人材を得て統一を実現しましたが、此れは劉邦が「親分肌」の理由で多くの武将が集まったわけでは在りません。
劉邦なら多大な恩賞を受け取る事が出来るとの打算が有ったから協力したのです。
皆、自ら金持ち、権力者を目指していた結果で、劉邦はその様な彼等を満足させねば成りませんでした。
又、秦は郡県制による急激な中央集権化で、反発を招いた事も一因です。
 
 その為、建国の功臣達や一族を諸侯として地方に封じましたが、漢帝国の内部に多くの王国が成立する結果となります。
王に成った者は、自分の王国内で大臣を任命し、実行支配を行いました。
一方、王国がつくられなかった地域には郡県制を施行して、皇帝直轄地としましたが、皇帝直轄地は全国の三分の一程度との事です。

 皇帝である劉邦としては、諸侯の期待に応えるには、この様な政策を実行せざるを得なかったのですが、若し各地の王が反乱を起こせば漢帝国は安泰では居られません。
郡国制は中央集権化に逆行していますから、劉邦は後に様々な理由で、有力な国を取りつぶし直轄地に編入して行きます。

3)対外政策。
 
 当初劉邦は北の脅威、匈奴に対して遠征を実行しますが、逆に包囲されて命からがら逃げ帰ったことが在り、以後は対匈奴和親策を選択し、一族の娘を匈奴の王に送ったり、平和を保つ事に努力します。

4)道家の重用。

 儒家は礼儀作法に極めて厳格ですから、劉邦達は其れを好みませんでした。
極端な言い方ですが、劉邦は、本来田舎の親分肌ですから教養等期待出来ません。
言い換えれば、本当の庶民なのです。

 例えば、彼の両親、母親は劉媼(りゅうおう)と記録されています。
「媼」は、おばあさんの意味ですから劉媼とは「劉の婆さん」と里の皆から呼ばれていた、そのままの呼び名で記録されているのです。
父親も劉太公と記録され、「劉じいさん」の意味なのです。

 劉邦自身も「邦」というのは、当時は「兄貴」という意味との説も在り、砕けた表現ですが「劉の兄貴」と呼ばれていたそのものが、そのまま名前に成ったと推定されます。

 劉邦が旗揚げした時から、従って来た部下達も、屠殺人や葬儀人等、当時社会の低層に属する人物が多く、良くても地方役所の書記官程度でした。
 
 結果この様な人達が、突如大帝国の皇帝や重臣に成りましたから、当初の宮廷は、内部的に可也宮廷らしく無い世界だったと推定されますので、「無為自然」の道家は受け入れ易かったのでしょう。

 ただ、国家を運営して行く為には、それなりの秩序を維持が必要である為、徐々に儒家の説く礼を儀式に取り入れられます。
しかし、儒学が漢朝廷に本格的に取り入れられて行くには、未だまだ時間が掛かりました。

漢:続く・・・

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